プロ野球界に見る「日米摩擦」(2)

 ヤクルトスワローズ、西武ライオンズを優勝させ、“名将”と言われた広岡達朗さんは、外国人の使い方が実に巧みだった。

 いろんな人たちからの情報を聞き、大リーガーというものをよく知っていると、ひそかに感心した。

 相手のプライドを考慮したのだ。昭和51年(1976年)、ヤクルトに入団した“赤鬼”こと、マ二エルという左打ちの強打者を覚えておられるはずだ。

 打つことはよく打ったが、足が遅い。それにひどく短気な男だったらしい。

 広岡さんはこのマニエルをスタメンに起用する際、こう申し渡した。

 「おまえの欠点はこういう点だ。だから1点もやれないというときは、守備を固めるために交代させることがあるぞ」

 マニエルも守備に関しては偉そうなことは言えない。不満ながらも納得していた。

 そのうち、広岡さんのやり方が間違っていないと思ったのか。自分から交代を言い出すようになったそうだ。

 ただ一度だけ広岡さんが、試合の最中に交代させたことがある。

 “赤鬼”は顔を真っ赤にして怒った。

 広岡さんはその時、こう話したという。

 「私もこういう交代のやり方は嫌いだし、私の野球に反する。しかし、さっきのバンザイ(頭上を抜かれた)は、私のいうようにキチッと練習していたら、起こるはずのないミスだった」

 さらに続けた。

 「しかし、それをわかっていて使ったのは私のミスで、君の責任ではない。その点、監督としてまずいことをしたとおまえに謝る。しかし、おまえが守備練習に取り組まないでいまの状態のままだと、私は使わない」

 キッチリと筋を通して監督の考えを示した。その上、決して妥協しない厳しさを伝えている。立派というほかはない。

 横浜ベイスターズが大洋ホエールズ時代の昭和52年(1977年)、スチュアートという長距離打者を採用したことがある。

 191センチ、92キロという堂々とした体で、シンに当たればボールはすっ飛んでいくといった感じだった。

 その前年、来日したドジャースの一員だったのが、突然、フリーとなったのをうまく獲得した。

 だが、あまりにおいしい話なのであとで調べた。その結果、関係者にこう言われた。

 「ヒットさえ打てば満足している。だから守備の練習をやらない。それでクビにした」

 確かに、守備はヘタだったが、カーブ打ちの名人だった。

 初めての投手には、わざとカーブを空振りして、次の打席ではカーブを狙って長打を飛ばした。

 甲子園での阪神戦で、江夏豊投手からツーランホームラン、右中間二塁打を奪って度肝を抜いたものだ。

 はじめ、よくカーブで三振するため、スポーツ紙が、『スチュアート殺すに刃物はいらぬ。カーブの3つもあればよい』などと書いたところ、「それでいいんだ」。ニヤッと笑っていた。

 この記事が出た翌日、後楽園球場の巨人戦でカーブを場外ホームランしている。

 しかし、確かに守備はとても使えたものではなく、監督もひどく苦労したが、「ヒットを打っているのになぜ使わん」と、代えられたときはすごく怒っていた。

 プライドだけはやたらと高く、自分の型を絶対に崩さないという優越感みたいなものを持っていた。

 打つには打つが、とてもチームの一員としては使えない。早々にお引き取りを願った。

 このスチュアートが帰国するとき、オーナーが、「日本の野球をどう思う」と尋ねた。

 彼は、「日本ではミスをするとみんなの前で叱る。あれはよくない。注意するなら監督室にでも呼んでやるべきだ」と答えた。

 “叱り方”を口にしたのには理由がある。

 ある試合中、ベンチであるコーチがスチュアートの守備などについて不満を漏らした。

 スチュアートにはなんの話かわからなかっただろうが、選手たちの表情などで自分の悪口だとピンときた。

 その後、スチュアートが逆転本塁打を打ったのだが、三塁コーチスボックスにいたのがそのコーチだった。

 コーチが差し出した手を払いのけるようにして彼はホームインした。

 その時の悔しさがずっと頭から離れなかったのだろう。(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)

  ◇  ◇

 牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、79歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。

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