プロ野球界に見る「日米摩擦」(3)
プライドといえば、昭和53年(1978年)に獲得したミヤーンはNY・メッツにいた内野手だった。
メッツが彼を出したのは、前年に手術した右鎖骨骨折に自信が持てなかったからだ。
調べると、プレーにはそれほど影響がないことがわかった。
長距離打者ではなかったが守備もいい。2年目は打率・346で、大洋(現DeNA)から初の首位打者になった。
だが、3年目のシーズン半ば、監督はミヤーンをはずして若手をスタメンに入れた。
さらに、終わり近くになってこの若手を引っ込め、ミヤーンを守備固めに出した。
怒ったミヤーンは、「こんな使われ方をするならもう出たくない。オレは辞める」。日本の主力選手なら監督もそうはしなかっただろう。この年で彼は辞めた。
ミヤーンはプエルトリコ人で色が浅黒い。獲得した際、シピンが住んでいた麻布のマンションに入居させようと手配に行った。
だが、「黒人選手はダメだ」という。白人ではないが、ミヤーンは黒人ではなくプエルトリコ人だと説明してやっと入居できた。
ロッテのレオン・リー選手をトレードで入団させた時だ。空室がありながら、「あの部屋は実は手付金をもらっていたばかり。係の者がうっかり忘れていたので…」と見え透いた言い訳で断られた。
リーなどは選手としてはもちろんだが、教育もきっちり受けているし、人間的にも実に立派だった。
当時、私は日本にもまだこんな人種差別があるのかと悲しい思いをした。
この種の問題は私がいくら悩んでもどうすることもできない。けれども、グラウンドの中では、使う側がもう少し広い視野に立てば、うまくいくケースがたくさんある。
昭和56年(1981年)に大洋)に入団したジム・トレーシイをめぐるトラブルもこのケースだった。
彼は大リーグからマイナーに落ちていた選手だが、変化球もこなせるシュアなバッターだった。
性格も真面目だし、日本の水に合えば、必ず活躍すると思った。
実際、1年目は開幕から4割前後の打率で打ちまくった。最終的には・303、本塁打19本。1年目としてはまずまずだった。
ところが、2年目の開幕試合の四回、ヤクルトのスミスが二塁頭上を越える飛球を打った。二塁手が懸命にバック、右翼手のトレーシイも前進したが、打球はその前に落ちた。
試合後、トレーシイは、「難しいフライだし、ヘタに突っ込んでそらしたり、はじいたりするとキズは大きくなる。だから大事をとったのだ」と語ったが、監督にはこれが怠慢プレーと映った。
試合後、「あのプレーが敗因の一つ」という言い方をした。これは監督の判断で、われわれはとやかく言えない。だが、私は「これはまずいことになったな」と心配した。
理由はあった。昭和58年(1983年)暮れ、外国人選手獲得のため私と監督が渡米したとき、候補の1人であったトレーシイの写真を見た監督が、「なんだ、これは。野球選手の顔じゃないよ」と言い出し、一度は断った経緯があった。
私は、「顔で選手の実力がわかるのだろうか」と思ったが、監督には経験によるカンがあるのかとそのときは黙っていた。
これは後になっての話だが、あるベテランの監督経験者に、「選手の顔」について質問したところ、「根性がありそうだとか、ユニホームがピッタリ決まっているとか、見ただけでよさそうに感じることがある。しかし、人相見じゃないんだから、顔で選手を決める監督なんていない。そんなことをしたら、たちまち選手から見放されるよ」と笑いながら答えてくれた。
トレーシイはやや細長の顔で、アゴがややしゃくれており、監督が見た写真はコンタクトレンズではなくメガネをかけていた。
野球選手という感じが薄かったのかもしれない。それでもトレーシイは第2戦ではホームランを打つなど、強打の一端を見せた。
「これなら監督も使うだろう」と思ったが、翌日の第3戦、トレーシイが第3打席で四球を選び出塁すると、すぐ代走が送られた。
トレーシイは怒った。前日、開幕2試合目で本塁打も打った。足もそれほど遅くない。なぜ、ここで代走なのだというわけだ。
「これほどプライドを傷つけられことはない。オレはもう試合に出ない」。 結局、これがこじれてトレーシイはチームを去った。もったいない話だと思った。
金に汚いわけでもなかった。「3試合で辞めるんだから、残りの給料はいらない」。あくまで野球人としてのプライドの問題だと言ったのだった。(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)
◇ ◇
牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、79歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。