亡き恩師にささげるセンバツV
チーム一の努力家が、聖地で歓喜の渦に飛び込んだ。「これまでの野球人生で最高です」。センバツで優勝した敦賀気比で、全試合で三塁コーチャーを務めた安田には、喜びを誰よりも伝えたい人がいた。
湖南ボーイズに所属していた中学3年の時、全国大会直前の練習で東浦康幸監督(当時60)が突然倒れ、心筋梗塞で帰らぬ人となった。
「本当に信じられなかった。陰で努力している選手をちゃんと見抜いて使ってくれる監督だった」と安田。同チームの池元富夫代表(65)は、「ほめるときも叱るときも常に選手目線で、指導者である前に教育者だった。東浦監督を慕って、県内各地から生徒が集まってきた」と振り返る。
阪神ドラフト5位の植田海内野手(近江)もその1人。安田の1学年上で、互いに東浦監督の熱心な指導のもとで育った。互いに今でも帰省時には、恩師の墓前で手を合わせる。
「監督がいたからここまでこれた」と話す安田は、敦賀気比に入学後も東浦監督の教え通り誰よりも多く汗を流した。「練習が終わった後もずっとバットを振っている。1年がやるような練習も黙々とこなす」と、チームメートの誰もが認める。
メンバー入りしたセンバツでは、全試合で攻撃のカギを握る三塁コーチャーを務めた。
1点勝負となった仙台育英戦では0-0の五回、2死二、三塁で、林中勇輝内野手(2年)の右前打に迷わず腕を大きく回した。「相手の右翼手の肩が強くないのはわかっていた」と、一気に二者を生還させた。シートノックや外野のボール回しから、相手の肩や送球の精度、守備への意識を常に見極めてきた陰の立役者が、大舞台でチームを救った。
大会中は、ずっと東浦監督のユニホームの写真をお守りのようにポケットに忍ばせていた安田。「東浦監督には、本当にありがとうって言いたい」と、天国に向けて合掌した。
将来の夢は、中学教諭で野球部の顧問。「努力はほんまにウソつかへんって、次の世代にも継承していきたい」。恩師のような立派な指導者を目指す。