松坂は僕らの誇り、京都成章の元主将も心から
第97回全国高校野球選手権大会が6日、甲子園球場で開幕する。夏の高校野球が始まって100年。この一世紀を彩った名選手の中でひときわ輝く名は、松坂大輔(横浜=現ソフトバンク)だろう。
“平成の怪物”が躍動した1998年に3年生だったPL学園、明徳義塾など数々の選手たちは、その後の野球人生で「松坂世代」と呼ばれ続けてきた。野球に限らず「○○世代」とひとくくりで呼ばれることに違和感を覚える選手は多いが、「松坂世代」は違う。それぞれの選手が松坂を敬愛し、「世代」の一員であることを誇りにしている。
最も煮え湯を飲まされたと言ってもいい男がいる。決勝で松坂にノーヒットノーランを喫した京都成章の主将、現在はスポーツマネジメント会社を経営する澤井芳信さんだ。「1番・遊撃」で出場した澤井さんは、松坂の前に4打数無安打。卒業後は同志社大、社会人・かずさマジックを経てレッドソックス・上原のマネジャーとなった。現在は、マネジメント会社、株式会社スポーツバックスの代表取締役として活躍している。
京都成章はダークホースとして決勝へ進出した。決勝の相手は松坂。澤井さんは当時をこう振り返る。
「僕らはそれまでビデオとかで対策を練っていたんですけど、松坂の時はお手上げだった。対策としては、当日の決勝前にできる打撃練習で、右の打撃投手を2メートル前にして思い切り投げてくるのをバント(練習)したくらい。速い球のバント対策で、目をならすイメージでした。でも、ノーヒットノーランされるなら、思い切ってフリーバッティングやればよかったですね」
松坂のボールは、まさに未知の世界。
「低めの伸びが違いましたね。低いなと思ってバット止めたつもりがパーンと当たってしまった。結果は当てただけのピッチャーゴロ。僕は当たると思っていなくて『あっ!当たった』という感じだった。低めのボールと思ったのが、僕の感覚より上やったんですね。初めての経験でした」
5万5000人の大観衆。ノーヒットノーランへ「あと一人」のコールはマンモスが揺れるように感じた。しかし、京都成章ナインは最後までニコニコと笑顔でプレーした。「楽しい」。心からそう思えた。
その後、京都成章ナインは、ひそかにリベンジを企てていた。その秋の「かながわ国体」だ。
「モチベーションは『もう一回松坂とやるぞ』。で、もう一回丸刈りにしたんです。僕らはびっくりしたけど、奥本(保昭)先生(当時監督=現京都・塔南監督)から言われて…。その時の対策は、夏は速い球が来るから速く振ろうとしたけど、今度は狙い球を絞って三振OKでフルスイングやと。開き直りでした。結果は出ましたね」
国体でも決勝戦で対決。試合は1-2で惜敗したが、打線は16三振しながら8安打を記録した。「三振OKでフルスイング」を体現し、澤井さんは三塁打と二塁打を打った。2度目の準優勝で、自分たちの成長を体現できたことは何よりうれしかった。
澤井さんはその後の人生でも、松坂との縁を感じることが多いという。上原がオリオールズに所属時、初めて見たレッドソックス戦で先発していたのは松坂だった。
「オレも打席で(松坂の対戦相手として)立ってたんやな。そこ(メジャー)まで行ってくれてありがとうと思いました。また、(2013年に)上原さんがワールドシリーズで優勝した翌日、上原さんたちとたまたま入ったボストンのレストランに松坂がいたんです。上原さんに『おめでとうございます』。僕には『久しぶりやな』って」
あの夏、ノーヒットノーランを喫したことを卑屈に感じたことはない。国体の宿舎で帽子にサインをもらったのはいい思い出だ。すべては松坂の天真らんまんさ、おおらかさが包み込んでくれていたのだろう。
「僕の人生から松坂大輔という名前は外せない。ありがたいことです」という今、強く思うことがある。
「いつも彼を応援してます。だからこそ、今の状況は歯がゆい。上原さんもほんとに引退を覚悟していた時期がある。(故障から復帰し)メジャー2年目の快進撃から今がある。頑張ってほしいです」
僕らの誇りである“平成の怪物”は、必ず復活する。そう信じている。(デイリースポーツ・船曳陽子)