難病と戦った鳥羽の伝令・田村剛
「全国高校野球・3回戦、興南4-3鳥羽」(16日、甲子園)
接戦の末に興南(沖縄)に敗れた鳥羽(京都)に苦闘を乗り越えて甲子園にたどり着いた選手がいる。
148センチの背番号18が試合を通じて全力で3回、マウンドに駆け寄った。「ミスして顔に出てるやつがいたので『切り替えろ、全員で守ろう』と伝えました」。チームのまとめ役で伝令の田村剛(3年)が、再三訪れたピンチで鳥羽ナインを鼓舞した。
第1回大会を制した京都二中の流れをくみ、100周年大会に出場してきたレジェンド校で、田村自身も再三のピンチを乗り越え、“奇跡”を体現してきた1人だ。
小学1年から野球を始めたが、5年の時に低身長症でホルモンバランスが上手くいかず入院。ホルモン注射を打つ治療を続けたが、これ以上の効果が得られないと、今年4月に終了した。
中学1年の夏には右ひじ離断性骨軟骨炎になり手術。中学2年に復帰するも、今度は2万人に1人が発症するという股関節の難病、ペルテス病が発覚。中学3年の夏に手術し、医師からは「二度と野球ができない」と言われた。
幾度となく体にアクシデントが襲ったが、野球への炎は消えなかった。鳥羽に進学してからも野球部に入部。母・美貴さん(43)は「家でも椅子に座って素振りしていた」と振り返る。
松葉づえをつき、自分なりに練習していたが、松下浩司部長(33)の目には物足りなく映った。「病気のこともあったけど、ユニホームを着ているだけで満足しているように見えた。野球をやるからには他の選手と同じ目線で、戦力として上を目指してほしい」。他のプレーヤーと対等に扱うからこそ、厳しく叱りつけた。
雷を落とされた田村は「目が覚めた。できることでも手を抜いていた」。以降は進んで雑用をこなし、練習には一番乗り。2年秋からは部員を叱咤し、チームを締める役割も担った。「かつての自分のように腐ってる選手がいたら、言いづらいことでも言いました」。
口だけではメンバーの信頼は得られない。松葉づえが取れると選手としても努力を重ね、「練習試合に出したらしっかりヒットを打つ」(同部長)とプレーでも証明。吉田監督からの信頼も厚く、司令塔というポジションを実力で獲得した。
メンバーとして聖地の土を踏み、最後まで全力で戦い抜いた。「人生の中で一生忘れられない経験になりました」。進路は未定だが、闘病経験を生かし、柔道整復師の資格を目指すという。