神田正輝コラム 赤坂の山でカブト虫
【ナンダカンダで40年】前回は「朝だ!生です旅サラダ」の話をしましたが、もともと旅が好きなんです。小学1年生の時から、片道2時間かけて鎌倉から東京の赤坂小学校に通ってましたから。子供の頃から、毎日が“旅”だったわけです。
僕が生まれたのは東京・赤坂の一ツ木。小1で鎌倉に引っ越したんですが、親父が赤坂小のPTAをやっていたので鎌倉から通っていました。高学年になって、昔は「穏田(おんでん)」と言ったけど、今の神宮前(渋谷区)に越しました。
今でこそ、赤坂は都心の一等地ですけど、昔は違った。僕が小学生の時だと昭和30年代になるわけですが、当時は赤坂の一ツ木通りだって豆腐屋や果物屋、魚屋があってね。「ロキシー」っていう小さなパン屋では10円か15円のコッペパンにバターピーナッツを塗って食べられたというくらいの時です。都電が片道10円で往復が15円。有名な店では風月堂(菓子店)が1軒あっただけでしたね。
あとは子供がそのへんで遊んでる。僕は赤坂の山でカブト虫を捕っていた。日枝神社の回りの山をぐるっと登ると、僕が生まれた山王病院があって、そのあたり。鳥もちで捕るんですよ。“鳥もち”なんて、今の人、知らないでしょうね。トンボを鳥もちで捕るとバラバラになっちゃうから、カブト虫とクワガタを狙うわけです。
当時、僕の知る範囲で東京にビルがあった街は新宿の伊勢丹の回りと銀座だけ。新宿西口にはまだあまりなかったし、東銀座もぽつんと歌舞伎座があっただけで、2階建てのモルタルの家が建っていた。隅田川にかかる勝鬨(かちどき)橋もまだ開閉していたしね。
高校生になると、学校をサボって東神奈川の職安に行った。中卒ってことにして、朝5時前に。賃金の高い順に名前を書いとけば、1万5千円くらいになる。ホース工場やタイヤ工場、米軍の港湾(作業)とかいろんな所に行きましたよ。アメ車をタンカーに乗っけて、間に緩衝材を入れて後ろのシートを外すと小銭が落ちてる。それを拾ってからシートを元に戻す。給食センターのメシ食って。
サラリーマンになってタイムカードを押すよりこっちの方がいいと高校生の時に思った。会社員向きの頭ではなかったから。旅がしたかった。今もある意味、そうですけどね。