侍J指南役は国際経験豊富な打撃コーチ
小久保裕紀監督率いる野球日本代表「侍ジャパン」の初陣、台湾3連戦(11月8~10日、台北)に臨むコーチ陣が決まった。平均年齢45歳の若いスタッフは台湾戦だけの短期契約だが、現役選手(兼任)の日本ハム・稲葉篤紀外野手、NPBでコーチ経験がない仁志敏久氏、矢野燿大氏ら新鮮な顔ぶれがそろった。
打撃コーチには、アマチュアから東アジア大会で日本代表監督を務めた小島啓民(ひろたみ)氏が入閣した。アマから数選手が代表選出されることも小島氏起用理由の一つだが、プロアマの垣根を越えた興味深い人選となった。
49歳の小島氏は社会人、三菱重工長崎で95年から兼任監督を務め、指導者生活をスタート。99年の都市対抗で準優勝した。00年には日本オリンピック委員会が将来の競技団体のリーダー育成を助成する在外研修制度で、米大リーグ、パドレスの1A球団に1年間帯同している。
日本代表では06年アジア大会、09年IBAFワールドカップなどでコーチを務め、監督として10年アジア大会、11年IBAFワールドカップなどを指揮。14日まで開催されていた東アジア大会は優勝した。小久保監督は小島氏について「国際経験豊富な方を選ばせてもらいました」と説明した。
小島氏と小久保監督は銅メダルを獲得した92年バルセロナ五輪の日本代表でともにプレーした。このときの経験が両者にとって国際野球の原点になっている。
五輪にまだプロが参加する前、アマチュアの日本代表は「世界でどう戦うか」を徹底的に追求していた。自らの技術、パワー、スピードの向上はもちろん、相手国の野球観まで研究した。日本には日本の野球があるように、キューバにはキューバの野球の常識がある。相手のデータを分析するだけではなく、その国の野球の歴史、文化まで深く知ることで、たとえばピンチでの相手の思考回路や戦法を推察し、対処法を考えた。
特に山中正竹監督が率いたバルセロナ五輪代表チームは、現在のようにインターネットなどなく情報が限られた時代に、国際野球を深く追求した集団だった。当時「全日本は長崎の出島」と称されたように、日本球界で異文化を吸収する最先端にいた。小久保監督と小島氏はそんな時代を共有している。
とはいえ、小久保監督は当時チーム最年少で唯一の大学生選手。小久保監督より7歳年上の小島氏は当時28歳で、同年齢の高見泰範主将の相談役であり野手陣のリーダー役という関係だった。
山中氏は、ミーティングの内容を小島氏がかみ砕いて小久保監督に伝えている姿をよく覚えているという。小久保監督はミーティングで最前列の席に座り、当時やはり代表候補選手として学生から選ばれていた仁志氏とともに熱心にノートを取っていたという。しかし新しい知識、これまでと違う野球観についていけないときには、小島氏が「世界の野球はこうだ、日本代表は今、こういう方向に進んでいる」と補講したという。山中氏が「野球を追求する意識が高いバルセロナ組でも優等生の1人だった」という小島氏は、いわば小久保監督にとって国際野球の指南役だったわけだ。
その後も国際経験を積み重ねた小島氏のブログは、今、野球マニアから注目を集めている。打撃理論は現役時代から卓越していたが、さらに研究を重ねて新しい知識をネット上で披露している。豊富な国際経験を元にした最新の野球観を発信し続け、指導者論や組織論も奥深い。
初陣を迎える小久保監督にとっては頼もしいスタッフとなりそうだ。
(デイリースポーツ・松森茂行)
■小島啓民(こじま・ひろたみ)1964年3月3日生まれ、長崎県出身。現役時代は右投げ右打ち、内野手兼外野手。諫早高で2度甲子園に出場。早大を経て三菱重工長崎に入社。91年に4番打者として都市対抗準優勝貢献。92年バルセロナ五輪では8試合すべてに指名打者として出場した。95年に兼任監督となり、00年まで監督を務めた。2010年のアジア大会は日本代表監督として3位に導いた。
■バルセロナ五輪日本代表メンバー
監督・山中正竹(住友金属)、コーチ・荒井信久(神戸製鋼)、野端啓夫(三菱重工三原)、投手・佐藤康弘(プリンスホテル)、杉山賢人(東芝)、渡部勝美(大昭和製紙北海道)、西山一宇(NTT四国)、小桧山雅仁(日本石油)、伊藤智仁(三菱自動車京都)、杉浦正則(日本生命)、捕手・高見泰範(東芝)、三輪隆(神戸製鋼)、内野手・大島公一(日本生命)、若林重喜(日本石油)、西正文(大阪ガス)、徳永耕治(日本石油)、十河章浩(日本生命)、小島啓民(三菱重工長崎)、小久保裕紀(青山学院大)、外野手・坂口裕之(日本石油)、佐藤真一(たくぎん)、中本浩(松下電器)、川畑伸一郎(住友金属)