覚えてますか“インドのシンザン”
オルフェーヴルとキズナがフランスの3歳牝馬に完敗した凱旋門賞の落胆から約1カ月半。今週は日本で国際GIレース「第33回ジャパンカップ」(東京芝2400m)が行われる。振り返れば今から32年前の1981年(昭和56年)、日本の競馬史上初めて外国馬を招待して実施された第1回は、直前の天皇賞・秋1、2着馬が出走しながら、欧米でとび抜けた実績もなかった外国勢が1~4着を独占。「日本馬が世界に通用するようになるにはあと50年も100年もかかるのでは」と日本の競馬関係者もファンも呆気にとられたものだった。当時のドタバタぶりを振り返るとともに、新証言も交えて第1回JCの真実を探っていきたい。
◆異彩を放った“インドのシンザン”
JRA発行のG1ハンドブックによると、ジャパンカップは「1970年代後半に『世界に通用する強い馬づくり』が提唱され、その一環として日本でも国際競走を施行し、外国の強豪と日本のサラブレッドを同じ舞台で競わせようという機運」が高まって企画され、世界各国への懸命なPR活動が実って1981年に創設された。
第1回の招待対象は、米国、カナダ、豪州など環太平洋の国々と、アジア競馬会議加盟国の中のサラブレッド生産国に絞られ、欧州は見送られた。最終的に招待を受諾したのは米国3頭、カナダ3頭、インド1頭で、トルコからの1頭は来日後に故障を発生して日本では走れなかった。
その中で本番のちょうど1カ月前、真っ先に来日したのがインド代表のオウンオピニオン。彼の地では40戦して20以上の重賞を含む27勝、2着8回、3着2回という最強馬で、日本でも実績を残したフランス産種牡馬シルバーシャークの孫という血統。インドはかつて英連邦に属していて競馬の歴史も古いだけに、かなりレベルが高いのではという見方もあった。
他方、北米勢がレース直前になるまで来日しなかったこともあって、「ターバンを巻いた厩務員が、カイバにカレー粉を混ぜている」とか「インドでは象と併せ馬?して鍛えてるらしい」なんてまことしやかな噂話も流れるほど注目の存在となり、いつの間にか“インドのシンザン”のニックネームまで付いてしまった。
実際のオウンオピニオンは体重400キロ前後の小柄な馬で、その外見からは“最強馬”の面影はなかったが、額に埋め込まれた真紅のルビーが母国での君臨ぶりを物語っていた。そして、周囲からの半信半疑の眼差しを察した?タミール語しか話せない若い厩務員は、様子を伺いにやってくる報道陣に対し、地面に「40(戦)、27(勝)、(2着)8(回)、(3着)2(回)」の数字を書き、「オウンオピニオン!ナンバーワン!インディア!」と自信満々に叫ぶのだった。
ところで、日本での最初の国際競走は第1回ジャパンカップではない。本番の2週前に前哨戦として組まれた平場のオープン戦(のちの富士ステークス)が第1号で、そのレースに出走したオウンオピニオンこそが、日本競馬史上に残る日本で初めて走った外国馬なのである。
その前哨戦のパドック、もちろん観衆の視線を一身に浴びたのはオウンオピニオンだった。馬体重400キロ。競馬専門紙の評価は無印か△がポツポツというところだったが、発表直後のオッズは7頭立ての3番人気。最終的にも5番人気に支持されたのだが…。
レースは重馬場1800m。当時は出走できるレースが限られていた外国産馬のタクラマカンが先手を奪ってそのまま楽勝。注目のオウンオピニオンは道中おっ付けながら4番手を進んだが、府中の長い直線と坂で急失速し、障害馬のジョーアルバトロスにも大きく差をつけられ、勝ったタクラマカンから2秒5差のドンジリ負け。かの厩務員は見るのも気の毒なくらいうなだれ、それから本番までオウンオピニオンがマスコミの話題になることはなかった。同馬の名誉のために付け加えておくと、第1回ジャパンカップでのオウンオピニオンはカナダの2頭には先着して15頭立ての13着。出走体重396キロは32年経った今でも、このレースの歴代出走馬最軽量記録である。
◆なかなか来ない北米勢
オウンオピニオン騒動?が終わると、ジャパンカップの話題はいっとき下火になってしまった。米国やカナダからの招待馬がなかなか来日しないのだ。日本入国時には5日間の検疫があり、早く来ないと長旅の疲れも取れず、調整もままならないのでは…と心配する声が日を追って大きくなる。日本馬の国際レース参戦が身近になった昨今と違って、馬の海外遠征に対する考え方が日本と欧米では大きな違いがあった。
北米からの招待馬の目玉は獲得賞金が100万ドルを超え、唯一G1を勝っていた米国牝馬のザベリワン。同じく米国牝馬のメアジードーツの勝ち鞍はG2までで、牡馬のぺティテートは仏G2勝ちはあるものの米国移籍後は今一つで、鞍上の名手シューメーカーばかりにスポットライトが当たっていた。カナダ勢もカナダ国内での実績はそれなりにあったが、当時はまだ日本と同様に国際グレードレースはほとんどなく、実力は未知数だった。
そんな外国勢を、競馬通の作家・寺山修司は「優駿」誌上で、戦後間もなく来日した米3Aチーム「サンフランシスコ・シールズ」になぞらえたが、野球の結果も競馬の結果もまさに同じになってしまった。野球の方は「3A相手なら勝てるだろう」と言われていたのに、赤バットの川上や青バットの大下らを擁した日本は6戦全敗。競馬の方も1~4着を独占されたのだ。
レースへ向けての調整方法も、日本の関係者を仰天させた。カナダの1頭を除いて北米勢が来日したのはレースの10日前。さらに検疫から東京競馬場に移っても、ほとんど強い調整をしない。さらに午後運動は一切なし。レース週の水曜か木曜に強く追い切り、午後運動もみっちりやっていた当時の日本式調整法とはまったく別物だった。中でも、結果的に第1回チャンピオンとなるメアジードーツはコースに出ない日もあり、調整もキャンターに毛が生えた程度。「脱水症で体調不十分」と言われながら、当時のレコードを0秒5も上回るタイムで優勝してしまったのだ。
◆ホウヨウボーイの加藤和が証言「差はなかった」
本番のレースについては、YouTubeを検索してもらえば動画で見ることができるので詳述は避けるが、“日の丸特攻隊”として「外国馬にハナは奪わせない」と宣言していたサクラシンゲキが最初の1000mを57秒8の超ハイペースで逃げ、それを3番手で追っかけたカナダの芦毛馬フロストキングが最後の直線でもうひと伸びして2着に粘ったのは、勝ったメアジードーツの驚異的な末脚とともに外国馬の底力を見せつけられた思いだった。ちなみにフロストキングは翌年、オウンオピニオンが大敗した前哨戦を圧勝している。
3着にザベリワン、4着はペティテートで、かろうじて日本、それも地方競馬出身のゴールドスペンサーが掲示板の一番下に名を連ねた。以下、天皇賞・秋の1、2着馬ホウヨウボーイ、モンテプリンスが6、7着。結果だけ見れば、明らかに日本勢の完敗である。
あれから32年、今はトレーナーに転じているホウヨウボーイ騎乗の加藤和宏調教師に改めて当時を振り返ってもらうと、意外な答えが返ってきた。もちろん「勝負事に“たら”とか“れば”はないけど」との前提つきだが、「ホウヨウボーイが勝ってたとは言わないけど、まともなら互角の勝負になっていた」というのだ。その根拠は、タクラマカンがゲートを突き破ってフライングした際のアクシデントにある。
「第1回の国際レースということで、日本馬はどの陣営も負けられないというプレッシャーの中で馬を仕上げていた。特にホウヨウボーイは前年の年度代表馬だし、直前の天皇賞も勝っていて、ジャパンカップはそれこそ究極の仕上げだった。それだけに馬の神経も研ぎ澄まされていて、2つ隣の枠のタクラマカンが突進したのにつられてホウヨウボーイもダッシュしようとしてゲートの金具に顔をぶつけて、そのときに前歯を3本も折ってしまったんだ。人間で考えたって、歯が3本折れてまともに走れると思う?」
ホウヨウボーイがゲートに突っ込んだ際に加藤和騎手もゲートの中で落馬しかけ、自分の体勢を立て直すのがやっとで愛馬の負傷出血には気づかずにレースが始まってしまったという。結果的にホウヨウボーイは勝ったメアジードーツから約5馬身差の6着。“たら”“れば”は通じないのを承知の上で、32年経った今でも「差はなかった」と悔しがる心情は痛いほど伝わってきた。
◆いまや普通のG1になってしまった?国際レース
「このごろのジャパンカップには胸が躍らなくなった」と思うのは私だけだろうか。少なくても20世紀中のジャパンカップは外国馬と日本馬が勝ったり負けたりの対抗戦ムードで盛り上がった。それがここ数年、高額賞金レースの選択肢が広がったせいか(それでも今年の優勝賞金2億5千万円は世界一だ)、日本の硬い馬場を敬遠するせいか、海外のチャンピオンホースが目の色変えて来日するケースは減り、加えて日本馬も凱旋門賞が究極の目的となって、今年はオルフェーヴルもキズナも出ない。
この原稿を書いている時点で、参戦予定の外国馬はわずか3頭。うち2頭は今秋のフランスでオルフェーヴルやキズナに大差をつけられている。日本馬圧倒的優勢はデータも物語っていて、過去10年で3着以内に入ったのべ30頭のうち外国馬はわずか2頭だけだ。
ジェンティルドンナとゴールドシップのどちらが強いか…に話題が集中するレースなら、なにも国際G1のジャパンカップでなくてもいい。JRAはそろそろ、実施時期の再検討や、他のカテゴリーの国際G1とスケジュールを組み合わせて海外の有力馬主や厩舎が何頭も一緒に連れてこられるようにするなど、マンネリ打破へ手を打つべきだろう。
(デイリースポーツ・関口秀之)