殿堂入り候補桑田氏28年前の長い1日
来年の野球殿堂入り候補者が先日、発表された。野茂英雄氏、清原和博氏らとともに、元巨人・桑田真澄氏の名があった。
もうそんなに時が過ぎたのかと、一瞬の感慨に襲われた。あの時、桑田氏は17歳だった。(以下、当時の記述については敬称略)
1985年のドラフト会議は、PL学園・清原の指名権をどの球団が得るかが注目の的だった。
PLの桑田もやはり注目選手だったが、あらかじめ早大進学を公表していたため、マークは外されていた。早大は当時、全国大会でベスト4以上に入れば人間科学部へのスポーツ特別推薦入学を認めていた。PLのエースとして甲子園で2度優勝、2度準優勝という桑田の実績は問題なかった。
そして11月20日、ドラフト会議の当日を迎えた。各球団の指名選手を“パンチョ”と呼ばれていた名物男、パ・リーグの伊東一雄広報部長が読み上げる。巨人の1位指名は-。
パンチョは「読売」と読んだあと、一瞬ためらったような記憶がある。
「桑田真澄 17歳 投手 PL学園高校」
当時巨人キャップを務めていた私だが、桑田の1位指名は取材の端っこにも引っかかっていなかっただけに驚き、「さあ、えらいことになるぞ」と覚悟した。取材戦争の開戦だ。
桑田はドラフト会議後すぐ、記者会見で巨人の指名を迷惑なこととして話した。あくまで早大志望を貫くと表明し、そして4日後の24日、早大のセレクションに参加する日がやって来た。
スポーツ特別推薦入学が決定的とはいうものの、一応の手順としてセレクションを受けなければならない。
大阪府八尾市の自宅から、桑田の乗ったハイヤーと報道陣との、業界用語で「追っかけ」と呼ばれるカーチェイスが始まった。
八尾から伊丹へ、そして羽田で再びカーチェイスが始まった。後で我が社のドライバーに聞いたところ、40台はいたそうだ。
我がドライバーは追っかけの名人で、ターゲットがどちらへ向かうかを計算して車の停車位置と停車方向を決め、体重の重いカメラマンが乗ると「加速が弱くなる」とご機嫌が悪かった。
その日、気合を入れて臨んだ我がドライバーは桑田の乗ったタクシーが発進するなりその直後につけた。すさまじい追っかけが始まった。遅れた社の車は信号が赤に変わってもホーンを鳴らしながら突っ切ってくる。
“桑田車”が逃げようとする気配もないので、我が社は楽勝のゴールインが予想された。と、その時、横からオートバイが割り込みを図ってきた。
これもまた後で分かるのだが、バイクは写真週刊誌が雇ったもので、“桑田車”の後につけるとその前に仲間を入れ、自分はスピードを落として他社の車が追えないようにする計画だったとか。
私は窓を開け、バイクに「どけーっ」と怒鳴った。ドライバーも頑張って割り込みは許さなかった。彼らの計画は破れ、ほとんどの社が追っかけを完遂した。
“桑田車”が着いたのは、某所だった。そこに早大関係者がいるわけでもなく、何をするのか分からないまま、我々は2階の一室にこもっていた桑田が出てくるのを待った。
私は裏口を見つけてその部屋の前にたどり着き、ドアに耳を当てたが、厚い木のドアで何も聞こえなかった。1時間か2時間かが経ち、やがて桑田が出てきた。会見が始まり、桑田は早大のセレクションを受けることを止めて、巨人入団を前提に交渉を受けることを発表した。
あれがもう、28年も前のことだ。桑田氏は22年間の現役生活を終え、今は殿堂入りの候補者として名を連ねることになった。間もなく野球殿堂博物館から投票用紙が届く。
(デイリースポーツ・岡本清)