加藤豪将「イチローさんが人生変えた」
笑うと目がなくなる。人懐っこい笑顔が印象的だ。
米カリフォルニア州で生まれ、日本に住んでいたのは3歳から5歳までと聞いていた。会うまでは日本語での会話が大丈夫なのかを心配したが、あいさつを交わしたとき、それが取り越し苦労だと知った。
サンディエゴの青空の下でのインタビュー。相手は6月の大リーグのドラフトでヤンキースから2巡目、全体66番目で指名された加藤豪将(ごうすけ)内野手(19)だった。日本人ではドラフト史上最高位の快挙。一躍、時の人となった。
加藤が野球を始めたのは2001年2月、6歳のときだ。父の転勤に伴い、サンディエゴに移り住んでから7カ月が過ぎていた。
「僕は英語ができなかったので友達もあまりいなかった。僕が英語でしゃべる機会を親がつくりたかったんです」。
筆者も異国の地で子を育てている身だからよくわかる。言葉の違いや人種の違い。わが子はアメリカ社会に順応できているか。それは決して小さな問題ではない。
野球を始めて約1年半後、加藤にとって衝撃的な出来事が起こる。
2002年7月4日‐。家族旅行で訪れたシアトルでマリナーズ対ツインズ戦を観戦した。お目当てはもちろんイチローだ。マリナーズのベンチがある一塁側の内野席から見た3時間1分の試合。その一挙手一投足を目で追った。テレビ画面からでは感じることのできなかった空気がそこにはあった。
「アメリカ人の中でこれだけ輝けるんだということがわかったんです。あの時の自分は学校とかで『自分は日本人だからここに居ちゃあだめだ』と思ったりして、ちょっと引き気味だったんです。でもあの試合のイチローさんを見て、僕もアメリカのソサイエティ(社会)に入らないといけないと思いました」。
小さな体で大男たちと渡り合う姿。見る者の心を揺さぶるパフォーマンス。言葉や人種は関係ない。「僕もメジャーリーガーになりたい」。異国の地で生きていく勇気と夢をイチローが与えてくれた。その日を境に加藤は右打ちから左打ちに変えた。
あれから11年‐。今年6月21日に加藤はプロデビューを果たした。初戦でいきなり本塁打を放ったニュースは日本でも大きく報じられた。ルーキーリーグでは主に二塁手として50試合に出場し、打率・310、出塁率・402、6本塁打、25打点。本塁打数とOPS・924(出塁率+長打率)はともにリーグ1位の好成績でオールスターチームにも選出された。
10月から始まった3週間の教育リーグでは、ヘッドスライディングの際に左手中指第1関節の靭帯を断裂するけがを負ったが、その後もテーピングをして出場し続けた。本職は二塁手だが、任されたのは遊撃手。ヤンキースの正二塁手だったカノが今オフにFAでマリナーズへ移籍し、正遊撃手のジーターは来年6月で40歳になる。来季は1Aのチームでプレーする可能性が高いが、加藤に対する球団の期待の大きさがうかがい知れる。
激動の1年。オフの自分へのご褒美は日本への旅行だった。「プロ入り後、一番大きな買い物」という往復航空券を手に12月16日から4泊6日の日程で初めて一人で日本を旅した。
神戸では2日間、イチローとの合同練習も実現させた。
「イチローさんと一緒にプレーするのが夢なんですけど、僕が下手すぎてまだ(メジャーに)行けないっていう感じです。プロ1年目で自分はここにいていいのかなって思いながら練習してました」。
練習後にはイチロー行きつけの店でごちそうになった。「知ってますか?牛タン。もう、信じられないおいしさでした。本当に驚きました」。まだにきびが残る顔をひと際大きく輝かせた。
プロ入り後、加藤はイチローと3度会っている。ヤンキースがアナハイムとタンパへ遠征した6月と8月、そして、今回だ。加藤にとって憧れの存在。写真撮影をしながらなにげなく「サインはもらったの?」と聞くと、予想外の答えが返ってきた。
「いえ、もらってません。今まではイチローさんをファンとして見てたんですけど、今は僕もプロになったので自分を選手、プレーヤーとして見てもらいたいので控えるようにしています」。
19歳が見せたプロ意識。ただ、自分に言い聞かせるているような口調が少し気になった。そして、もう一度問う。
「本当は?」
「本当は…欲しいです。ホントは欲しいです。野球を真剣に始めたのはイチローさんのおかげですから」。
人懐っこい笑顔。目が完全になくなっていた。(小林信行)
(※加藤豪将選手とのインタビューの詳細は2014年1月5日付のデイリー本紙に掲載されます)