船村徹氏の「演歌巡礼」とW杯
サッカーW杯の開幕を数時間後に控えた6月12日夜、日本を代表する作曲家・船村徹氏の誕生日会を兼ねた恒例の「歌供養」が都内で営まれた。ヒットには至らなかった数々の歌を弔い、物故者を悼むという儀式で、今年が30回の節目。この日、82歳となった船村氏は式後の食事会で、ギターを手に登壇すると、五木ひろしが熱唱する「男の友情」を伴奏した。
「男の友情」は、東洋音楽学校(現・東京音大)の先輩であり、下積み時代に苦楽を共にした作詞家・高野公男氏との作品。春日八郎の大ヒット曲「別れの一本杉」を2人で世に送り、これからという矢先に、盟友・高野氏は肺結核のため26歳の若さで逝った。その無念と情念もまた演奏に込められていたのか、船村氏がつま弾くギターの音色は場内に染み渡った。
“下積み時代”ということでいえば、この日、大御所のギターで歌った五木も無縁ではない。会場では、司会者から、1970年の「全日本歌謡選手権」(読売テレビ製作)で“三谷謙”として10週勝ち抜き、その時、船村氏が審査員として三谷を支持したことが紹介された。“松山まさる”でデビューするもヒット曲に恵まれず、“一条英一”を経て三谷に改名。五木は「これでダメなら、(故郷の)福井に帰って他の仕事をやっていたと思います」と歌手生命をかけた当時の思いを壇上で明かした。「全日本‐」で栄冠を勝ち取り、翌71年、五木に再々改名。「よこはま・たそがれ」で確固たる地位を築くことになる。
「芸能界でダメになっていく人間も多いが、“三谷”君は(精進して)日々成長していった」。当時30代後半の船村審査員による44年前の若い肉声がテープで会場に流された。船村氏は自身の言葉を聞き返しながら、目頭をハンカチで2度ほど、ぬぐった。苦労した人に対する思いは、自他を問わない。そうして、つまびいたギターには「演歌巡礼」の魂が貫かれていた。
船村氏は昭和20年代に酒場での“流し”を経験。1978年にフリーの作曲家として再出発すると、歌作りの原点に立ち返るべく、刑務所の慰問など全国を歌い回る「演歌巡礼の旅」を続けた。79年、その「演歌巡礼」のタイトルで世に出た幻の名盤が2005年にCDで復刻。今回、久々に聴き直した。「別れの一本杉」「柿の木坂の家」「都の雨に」「おんなの宿」…。シンプルで味わいの深いギター、情感の機微を繊細に表現する高音の歌声が染みた。
CD帯の惹句(じゃっく)には「アタウアルパ・ユパンキ、ジョルジュ・ブラッサンス、そして、船村徹」とある。“コテコテの演歌”と思われているが、船村ワールドは“日本代表”として国境を越える、まさに“歌のワールドカップ”だ(※ちなみにユパンキはアルゼンチン、ブラッサンスはフランスの歌手。その2カ国もW杯を想起させる)。実際、CDのライナーノーツでは音楽評論家・湯浅学氏のインタビューに対し、船村氏は「最初の頃のものは全く演歌的じゃないんですよ。例えば『別れの一本杉』なんかは、ラテンなんですよね」と答えている。
船村作品は4500曲以上。「別れの一本杉」をはじめ、「王将」(村田英雄)、「みだれ髪」(美空ひばり)、「東京だよおっ母さん」(島倉千代子)、「矢切の渡し」(ちあきなおみ、細川たかし他)、「風雪ながれ旅」(北島三郎)、「兄弟船」(鳥羽一郎)といった日本の大衆音楽史に刻まれた名曲から、小林旭「ダイナマイトが百五十屯」、内藤洋子「白馬のルンナ」、さらには先述の湯浅氏や漫画家・根本敬らの「幻の名盤解放同盟」が発掘した“怪作”「スナッキーで踊ろう」(海道はじめとスナッキーガールズ)まで、その音楽性は幅広い。
歌と同様、会場の顔ぶれも多士済々だった。北島、五木、鳥羽、由紀さおり、徳光和夫、船村氏と同じ栃木県出身のガッツ石松らが壇上で鏡割り。テーブル席では竹内力が隣席のガッツ氏と談笑する姿が目に焼き付いた。
「高野の死後、私は酒浸りの毎日を続けた」(著書『魂の響き‐のぞみ』より)。歌供養では高野氏の霊も弔われている。だからこその「男の友情」。五木とのコラボには説得力があった。来春には日光市に「船村徹記念館 日本のこころのうたミュージアム」がオープンする予定。日本中がW杯一色となる直前、“船村JAPAN”も節目の会で新たな前途に出航した。=一部敬称略
(デイリースポーツ・北村泰介)