三重の4番・西岡が地元に届けた元気
夏の甲子園は25日に、大阪桐蔭の優勝で幕を閉じた。北信越勢が史上初めて全5校初戦突破を果たすなど、従来とは違う地方の躍進が目立った今大会。故郷の高校の戦いぶりに、一喜一憂した方も多かったと思う。全国47都道府県から49代表が集まるからこその妙味といえるが、県勢59年ぶりの決勝進出を果たした三重に、地元の熱い応援を受けた、印象的な球児がいた。
4番を務めた西岡武蔵内野手(3年)は、三重県伊勢地方の南部、旧南島町出身。美しいリアス式海岸と急斜面の山肌に挟まれた小さな町は、過疎化のために05年に南勢町と合併し、南伊勢町となった。西岡が小学校3年の時だ。
通っていた母校は、小・中学校とも今はもうない。島津小は5年生の時に他の2校と統合。南島西中も今年3月いっぱいで統合され、名前が消えた。旧南島町の人口は、合併前の04年で約7200人。現在の南伊勢町も1万3000人ほどだ。
三重高校に入学して、最初に驚いたのは「クラスがいっぱいある…」ということだったという。小・中学校ともに、1学年1クラス。同級生は30人程度しかいなかった。1学年500人以上の生徒がいる環境が、まずカルチャーショック。とはいえ、そこは10代の少年。仲間と寮生活で寝食をともにし、野球に打ち込む中で、すぐに慣れていった。
昨夏は甲子園直前でメンバー外となったが、その悔しさを糧に練習を重ね、今春センバツに出場。初戦で智弁学園に敗れたものの、ホームランを放った。そして、迎えた今大会は不動の4番として活躍。準々決勝の沖縄尚学戦では、2季連続で聖地にアーチをかけた。
これを何より喜んだのが、地元の人々だった。「じいちゃん、ばあちゃんたちからは『頑張って』と、いつも声をかけられるんです」と母・厚子さん。高齢化が進む過疎の町で、愛息はヒーローさながらの存在になっていた。海と山を駆け回って育ち、漁業関係の仕事に就く父や祖父がいる市場に遊びにきてはバットを振っていた子が、日本中が注目する大舞台で大活躍している。幼い頃を知る人からすれば、何ともうれしいことだろう。
「人が少ない町なのに、県大会の時から、自分が勝ち上がることで、たくさんの人が応援にきてくれていると両親が言っていた。うれしいです」。決勝進出が決まった試合後、西岡は照れくさそうに話していた。
スタンドは超満員でふくれあがった決勝。三重は残念ながら敗れて準優勝となったが、七回まではリードを奪う堂々の戦いを見せた。一塁側アルプスから内野席にかけての三重ファンは、地鳴りのような歓声で後押しした。大阪桐蔭の西谷浩一監督が「地元だけど、完全アウェーでした」と語ったほど。その大応援団の中には、西岡の母校・南島西中のOBや地元の人たちの姿もあった。
決勝の激闘を終えたベンチの前で、西岡は「これだけの大観衆の中で野球ができたのは、一生の宝物」と、目に涙を光らせながら話していた。決勝の観衆4万7000人は、町の人口の何倍にもなる。甲子園という“大海”で成長した姿を披露し、生まれ育った故郷に元気を届ける。甲子園がスポーツの枠組みを超えたある種の“文化”として定着している理由のひとつを、あらためて実感した。
(デイリースポーツ・藤田昌央)