【野球】阪神・福留の「不動心」
阪神の福留孝介外野手が25日の広島戦(マツダスタジアム)で日米通算2000安打を達成した。1999年の中日入団から18年目での大台到達。福留の野球人生をたどると、球史に名を残す大記録の背景には「不動心」というキーワードがあった。
福留は小学生時代は大崎ソフトボールスポーツ少年団でプレー。中学でボーイズリーグ・鹿屋ビッグベアーズで硬式野球を始めた。
当時の白坂芳春監督は「よく寝て、よく食べた。練習もこっちがもういいよ、と言うまでやるし、手を抜かない」と振り返る。そして野球以外でも大物の片りんを見せていた。
「試合のためにバスで12時間かけて鹿児島から岡山へ移動した時、みんなが寝られずにワイワイ騒ぐ中で1人だけ寝ていた。当時から集中すると、自分の世界を持っていた。野球でも集中力があって、よくおいしい場面をもっていった」
福留は鹿屋ビッグベアーズを日本一へ導くと、全国の甲子園常連校から誘いが集まる中、PL学園を選んだ。
同級生で唯一の九州出身。それでもホームシックにかかるどころか、入学直後の実戦で本塁打。1年生で1人だけレギュラーメンバー入りを果たし、スター街道を歩みだす。
近鉄、阪神などでプレーした同級生の前田忠節氏(現セガサミーコーチ)は在学中、何度も精神力の強さを目の当たりにした。
「3年春の選抜大会1回戦・銚子商戦で、投手だった僕が初回に本塁打を打たれたんです。その後に僕が『ドメ、頼む。打ってくれ』と言ったら『任せろ。打ったる』と言って、本当に本塁打を打ってくれた」
甲子園での活躍もあり、95年ドラフトでは7球団から1位指名を受けた。その裏で前田氏はプレー以外でも強心臓ぶりを見ていた。
「阪神・淡路大震災が起きた時、僕はドメと同じ部屋だった。地震の後、寮生はみんな飛び起きて走り回っていたけど、ドメがいなくて、部屋に帰ったら寝ていて…。『どうした?なんかあった』って(笑)。普段から緊張や焦っているところは見たことがない」
近鉄入団拒否後、日本生命を経て98年ドラフト1位で中日へ入団。プロでも精神力で地力をつけた。01年秋季キャンプ。中日打撃コーチに就任した佐々木恭介氏は、キャンプで1日3000スイングを課した。
「それまで指導したチームでは1日2000スイングが最高で、和田(元西武、中日)は10日目に過労で血便血尿が出た。でも、孝介は全く故障せずに乗り切ったし、他の選手は残りの100ぐらいはフラフラでまともなスイングしかできないけど、孝介は最後の1本までピシャッと振っていたね」。佐々木氏の指導を信じ、練習を貫き通すと才能が開花。02年に自身初の首位打者に輝いた。
08年から米球界に挑戦。12年オフに日本球界復帰を決めた。佐々木氏は当時、球団の選択を迷っていた福留に、注目度が高い阪神よりもプレッシャーが少なく、条件もよかったDeNA移籍を勧めていた。だが、再び驚かされることになる。
「電話で『決めました。大阪へ行きます』って。『苦労するぞ。(注目度を)知っとるやろう』と聞いたら、『知ってます。最後の悪あがきというか、頑張りというか。厳しいところに身を置いてやるのが僕なので』って言われたよ」
記者は以前、福留に「今まで緊張したことはあるのか?」と聞いたことがある。すると、らしい答えが返ってきた。
「緊張したことはないな。(新人だった99年の)日本シリーズのエラーの時ぐらいかな。テンパったのも」
類いまれなる技術はもちろんだが、「不動心」という土台があったからこそ、福留は金字塔を打ち立てられた。(デイリースポーツ・西岡 誠)