【野球】広島・黒田が「変えたもの」と「変えなかったもの」
マツダスタジアムが真っ赤に染まった。マウンドの前で右膝を付き、広島・黒田博樹投手(41)が視線を落とす。現役生活20年。思いが脳裏を駆け巡ると、しばらく顔を上げられなくなった。涙、涙に暮れる。客席からは「クロダ、クロダ!!」の大合唱が鳴りやまない。優勝報告会が行われた5日が、最後のユニホーム姿となった。
振り返れば、輝かしい記録と、記憶が残る。黒田の20年には「変えた」ものと、「変えなかった」ものがあった。2004年にはアテネ五輪に出場した。中継ぎで2勝し、銅メダル獲得に貢献したが、帰国後すぐにシュートの習得に挑戦。翌05年の最多勝につなげた。新井が振り返る。
「食事をしていたら『このままじゃダメだ、もっと高い位置に持っていかないと』と。直球、フォークが主体でしたけど、ツーシームを投げ始めた。新しいトレーニングや、投げ方も変えたり…。探求心、追求心の塊。もっともっと、と新しいものを取り入れて、変化を恐れなかった」
全盛期は150キロ超の直球とフォークが主体。黒田はスタイルの変化に「当然葛藤はあった」という。だが投手である前に、プロとして生きざまを探した。変化は進化だと信じて生きた。変わらなければならなかった。黒田は言う。「行き着くところはプロである以上、結果を残し続けないといけない。グラウンドに立ち続ける以上は、相手に勝ち続けないと残る権利は得られない」。広島に復帰後はカーブや、チェンジアップの習得にも挑戦。常に活路を探した。
そんな変化を恐れなかった野球人生で、不変だったのが「エース」としての誇りだ。現役引退を表明した18日、広島市内のホテルで記者会見を行き、決断に至った理由を明かした。「すごく大きかった」と続けたのは25年ぶりのリーグ優勝。加えてエースとしての矜恃(きょうじ)が引退を決断させたという。
「歴代の監督さんはじめ、先発したら最後まで投げきると、そういう使い方をしていただいた。自然とそういう投手にならないといけないという気持ちがあった。やっぱり最後は先発完投できなくなった自分に対して、どこかで投手として区切りをつけないといけないとなった。そういう投手になりたかったんだなと思います」
“ミスター完投”と言われた男。今季の完投、完封は4月2日の巨人戦(マツダ)のみで、5月8日に「頸部の神経根症と右肩痛」で抹消されて以降は、満身創痍(そうい)での投球が続いた。緒方監督も「『すみません』という一言がいつもあった。投げ抜きたい思いが常にあった。その言葉を聞く度に彼の思いが伝わってきた」と明かす。プロ初登板となった巨人戦で完投勝利。先発投手として、エースとして、マウンドは譲りたくない-と、プロ20年間の投球回数は、日米通算3340回2/3に達した。
黒田は「僕の考え方は古いのかもしれないですけど」と笑う。だが、その思いはファン、仲間の心を打った。新井が言う。「黒田さんはエース。なぜかと言われたら、自分を犠牲にできるから。当然、高い技術を持った上での話です。そんな人が、チームのためと思ったら犠牲をいとわない。体調が悪くても中継ぎを休ませたいと思ったら、迷わずマウンドに志願して上がる。だからエースなんです」。苦しくても体を酷使して、犠牲にして投げ続けた20年だった。
「引き際を間違えないために、一生懸命やってきた。こういう引き際を選ぶことができたのは、よくやったかなと思います」
男気残留からメジャー移籍。世界最高峰の舞台で活躍すると、20億超のオファーを蹴って広島に戻った。最後はカープをリーグ優勝に導いて引退。背番号「15」は球団で3人目の永久欠番となった。
引退会見で「涙はいっぱい流してきたので、最後くらいはいいかな」と話していたが、優勝報告会は涙のフィナーレとなった。黒田が残した足跡は日米で、今後も語り継がれるだろう。「黒田?あの広島を優勝させた人じゃね」-と。(デイリースポーツ・田中政行)