【野球】野球を診た男 ONから選手支えた球場詰め嘱託医師の半世紀
プロ野球選手のパフォーマンスをバックアップする裏方にも、多種多様な業務がある。中でも選手たちの安心感に直結する、球場詰めの嘱託医師の存在は際立っている。1969年から後楽園球場、東京ドームで勤務し続けた柴孝也医師(77)=東京慈恵医大客員教授=は、野球の歴史の生き証人であり、医療のくくりを飛び越えて、“野球”を支えてきた。
1954年8月5日。岩手県釜石球場で、大洋松竹ロビンス(現DeNA)対巨人の試合が行われた。川上哲治は助監督兼務の現役選手。大洋松竹には青田昇らの名前もあった。
大洋漁業の港もあった釜石で、プロ野球の、1軍の試合はこれが最後となった。このスタンドに、野球少年の中学生、柴孝也の姿があった。
「中学から盛岡」と言うから、夏休みの帰省時だったのだろう。本人は、49年オフのセ、パ分裂騒動、毎日の大量引き抜きにも「生涯阪神」を貫いたミスタータイガース・藤村富美男の大ファンだったが、「大洋が勝ったんだよね」(大洋松竹6-0巨人)といまだに覚えているほど、生で見たプロ野球のインパクトは大きかった。
時がたち、柴は盛岡一高から東京慈恵医大に進学、そして卒業時、同大からの派遣先として選択肢は数多くあったが「ただで野球が見られる」という理由で、後楽園球場の嘱託産業医となることを選んだ。69年。巨人と東映(現日本ハム)がここをフランチャイズとし、この年に5連覇を果たす巨人では新浦壽夫が新人として入団した年だ。
野球という激しいスポーツにおいて、柴の仕事は意外にも「内科的なことの方が多かったですよ」と言う。「当時は医者も少なかったし、いろんなことに重宝がられたから」
中にはあるスター選手を通じて「○○選手に婦人科を紹介して欲しい」という話が舞い込んで来たり、グアムキャンプ直前には選手を集めて「エイズにかからない方法」をレクチャーしたり…。もはや「内科」の範ちゅうも飛び越えた、駆け込み寺のような存在だ。
何しろ選手が素振りで汗を流すための大鏡の前に医務室があったから、長嶋茂雄も王貞治も、堀内恒夫も治療と言うより「お茶を飲みに来てました」という。新浦には「5勝したらダルマ(当時人気だったウイスキー)をやるぞ」といった約束も。
球界全体を巻き込んだ八百長事件(黒い霧事件)では、東映の選手が絡んでないか、選手をよく知る柴のところへ“探り”が入ったこともあった。
73年に巨人はV9を果たすが、長嶋はシーズン終盤のプレー中、右手薬指に土が入り、これが化膿(かのう)、日本シリーズには出られなかった。「何回もその土をほじくり出すんですが、麻酔をさせてくれない。長嶋さんは『覚めないと嫌だから』の一点張りでね」と、壮絶な治療も懐かしむ。
後楽園から東京ドームへと、職場は変わった。柴の仕事は50年の時を刻む。一貫していたのは、よほどでなければ「この選手は調子が悪い」と首脳陣に言わなかったことだ。懇意にしていた川上哲治元監督、その参謀・牧野茂コーチにもだ。「出られなくなるから」と常に選手側に立ってきた。
ただ一度、禁を破ったことがある。86年、外野手・上福元勤の不調を診断した時だ。潰瘍性大腸炎が発覚、上福元の早実の先輩でもある王監督に「野球を続けさせるのは酷」と、心を鬼にして進言した。宅建資格を得て第二の人生を歩んだ上福元はしかし、2007年、41歳の若さでこの世を去る。
上福元に新しい仕事が見つかった時、本人に頼まれてあいさつ状を作ったのも、柴だった。
後楽園球場、東京ドームの医務室から、時には選手たちと町へ繰り出して、野球を“診て”きた柴。藤村富美男の生きざまに憧れた医師の、おとこ気あふれる診療記録は、プロ野球隆盛の証でもある。=敬称略=(デイリースポーツ・西下純)