【プロレス】「炎天下のAED」休業宣言の蝶野正洋が背負う盟友の死
プロレスラーの蝶野正洋(53)が都内のJR有楽町駅前に設営されたリングでAED(機能を失った心臓に電気ショックを与える自動体外式除細動器)を使った救急救命の啓発活動などを行った。三沢光晴さんの命日から3日後のことだった。
三沢さんのリング禍が蝶野の背中を押している。死の翌年、蝶野は消防庁で救急救命の講習を受けていた。
両雄が当時の2大メジャー団体のトップとして接近したのは2002年のこと。新日本プロレスの現場最高責任者だった蝶野は、新日本の威信をかけた5・2東京ドーム大会に向け、ノアの社長である三沢さんに参戦オファー。三沢さんも受諾し、蝶野VS三沢の黄金カードが実現した。
翌年の5・3東京ドーム大会ではノアのエース・小橋建太が新日本に初参戦。当時、K-1やPRIDEに圧倒されていたプロレス界にあって、蝶野は三沢さん率いるノアとの共闘によって苦難の時期を乗り切った。
そして09年6月13日、ノアの広島大会で悲劇が起こる。リングにAEDが持ち込まれ、必死の応急処置後、病院に搬送されたが、三沢さんは帰らぬ人となった。46歳だった。
8年後の6月-。蝶野は真夏を思わせる炎天下、正午から午後6時過ぎまで有楽町駅前の特設リングに立ち続けた。多忙な1日の合間に話を聞いた。
「三沢社長が亡くなった翌年、プロレス業界でライセンス制度の話が起こったが座礁した。そんな経緯もあって自分に何ができるかを考えた。より多くの人に救急救命の意識を持ってほしいという思いで活動している」
三沢さんは1歳上。また、新日本時代に闘魂三銃士として団体の屋台骨を支えた2歳下の同期、橋本真也さんが05年7月11日に脳幹出血のため40歳で急死したことも脳裏に刻まれている。ともに40代にして志半ばで逝った同世代の盟友の思いを背負い、蝶野は50代の人生を歩んでいる。
大ブームを起こした「nWoジャパン」の結成から20周年となる今年、蝶野は「プロレス休業」を宣言した。14年4月以来となるリング復帰も現時点では封印。経営するアパレル会社「アリストトリスト」、タレント活動、14年設立の「一般社団法人 NWHスポーツ救命協会」の代表として救命や防災の社会貢献活動という“3足のわらじ”を履く。
その日、駅前のリングには三沢さんの思いを背負う小橋をはじめ、大谷晋二郎、KENSOらプロレスラーが“参戦”。三沢さんの命を救うために使われたAEDを前にした。マット界だけでなく、俳優の杉浦太陽、蝶野がMCを務めるTOKYO MXのバラエティー番組「バラいろダンディ」で共演する認知科学者の苫米地英人氏ら幅広い世界から賛同者が集結した。
今後のプロレス界との関わりについて、蝶野は「リングに上がるというより、解説だったりで関わっていきたい」と意欲を示した。ジャンルを越境し、「職業・蝶野正洋」といえる境地になった男に“引退”はない。(デイリースポーツ・北村泰介)