【スポーツ】ホンダに託されたF1人気復活と、モノ作りニッポンの誇り
三重県鈴鹿サーキットで8日まで行われたF1日本GPで「マクラーレン・ホンダ」は11位と14位に沈んだ。15年、マクラーレンとのコンビを復活させ、F1に再参戦したホンダは3年連続、母国での入賞(10位以内)を逃し、ポイントを獲得できなかった。
88年に16戦中15勝を挙げ、92年まで黄金期を築いたタッグが無残な姿。今年限りで契約を解消するため、鈴鹿での集大成を期待した日本のファンもガッカリだった。
なぜ、ここまで苦戦するのか-。ホンダの長谷川祐介F1プロジェクト総責任者は2つの誤算を挙げた。
レース後の会見。3年の挑戦は失敗に思うが?と厳しい質問に「最初のプランが甘かった。甘く立てたわけじゃなく、想定しているよりF1レベルがはるかに高かった」と見通しの甘さを認めた。
現在のF1ではPU(パワーユニット)と呼ばれる動力源が用いられている。エンジン、ターボチャージャー、エネルギー回生システムなどが一つになった複雑なエネルギー供給システムでエコ化に対応し、14年から導入されたものだ。
ホンダとしては今回が第4期の挑戦。第3期までとは違い、他チームの技術開発力は想定以上に先を行っていた。第2期挑戦の83~92年は69勝を挙げたが、時代は違っていた。
とはいえ、複雑な工程、繊細な技術は日本メーカーの得意とするところのはず。3年も差が埋まらないのは、信じられない。そこには2つ目の理由として、11年3月11日に起きた東日本大震災の影響があった、という。
長谷川氏は続ける。「第2期(挑戦時)は社内で鋳造していたものが、東北の大震災により壊れてしまい、直す時間が足らなかった」。部品は外部発注となり、微妙な狂いがPUという精密機器には大きな誤差となった。
3年がたった現在は「相当、戻し始めている」と鋳造を含め、ほぼ全行程をホンダ自身が手がける。今夏以降、信頼性がアップし、日本GP前のマレーシアGPでは2台とも最終予選のQ3に進出。ストフェル・バンドーン(25)=ベルギー=は決勝で7位に入り、2戦連続でポイントを獲得した。
高速でテクニカルなコースで知られる鈴鹿でも今年は、勝負ができた。50周を超えフェルナンド・アロンソ(36)=スペイン=は10位のマッサ(ウィリアムズ・メルセデス)を猛追し、激しくアタックした。無情のフラッグで0・86秒届かず、逆転入賞はならなかったが、最後尾スタートから11位フィニッシュ。“最後の鈴鹿”で見せ場を作った。
長谷川氏は「実力的にはポイントが取れていた。アロンソはマッサを追い詰めた。去年ほど落ち込んでいない」と技術者として過去2年とは違う成果を母国で感じ取った。一方で勝負の世界として「『本当は速かった』は言い訳にならない。それがレース。ノーポイントは重く受け止める」と残念がった。
やっと兆しが見えてきた3年目の終盤だが遅すぎた。今季はF132勝を誇るアロンソがパワー不足に不満を爆発。マクラーレン側からついに“三くだり半”を突き付けられた。
私事ながら記者は鈴鹿の隣の工業地帯、四日市市で生まれ育った。赤と白(当時マクラーレンのチームカラー)のウエアに身を包むファンが大挙したF1鈴鹿。年に1度やってくるお祭りをワクワクして待っていた。
87年から鈴鹿でF1が開催され、国内の人気は沸騰。その中心にはマクラーレン・ホンダがいた。アイルトン・セナ、アラン・プロストと2人の最強ドライバーがチーム内で年間チャンピオン争いを繰り広げた。
世界一速い車のエンジンを作るホンダは誇りだった。ターボ、V10、V12の馬力がどう…、よく分かりもしないのに、友人との話題はエンジンだった。
30年の時を経て、鈴鹿に来た。あのマクラーレン・ホンが鈴鹿に帰ってきたと思うと懐かしさがこみ上げた。だが、メルセデス、フェラーリ、レッドブルの3強に食い込むどころか10位争い。どのチームよりも速く駆け抜けた、あの最強コンビが周回遅れ。ただただ悲しかった。
今年の鈴鹿日本GP3日間の観客動員数は13万7000人で昨年より8000人少なく過去最少。90年~00年代始めまで同30万人超えは当たり前だった時代は遠い昔。動員減に歯止めはかからない。
開催すら危ぶまれる人気の下降。長谷川氏は「ホンダの影響はものすごくある。勝利を狙える位置にいればお客さんの入りも違う」と、責任を痛感した。
まだ道半ば。挑戦は終わらない。来季は新たな相棒、トロロッソにPUを供給することが決まり雪辱舞台を得た。「マクラーレンを見返したいと思う人は当然(チームに)いる。もう一回チャンスをもらえた。ホンダとして世界一を目指す」。モノ作りニッポンの誇り奪回はホンダに託されている。(デイリースポーツ・荒木司)