【野球】「プライドを捨てるプライドがすごさだ」 黒田氏が表現した新井という男
質問すれば必ず2、3秒の静寂が生まれる。その空間はいつも、新井選手と僕の真剣勝負だ。たまらなく好きな時間でもあった。プレースタイル同様、取材にも常に全力の人。発言の影響力を理解した上で、一貫してファンに向けた答えを探した。受け流された記憶はない。座右の銘でもある、「球の心は正直者」を地で進んだ。
担当記者として、僕が密に接したのは15、16年。「どの面下げて」と言いながらカープに戻り、涙で宙を舞った2年間だ。「震えるくらい感動した」と話すのが移籍後、マツダスタジアムでの初打席。だが、同時に「本当にうれしかったな」と言うのが、初めて敵として立った甲子園球場の歓声だった。
「厳しい声援も財産。いや、違うな。宝物じゃけえ」。広島ファンだけじゃない。必ず阪神ファンに向けてもも、感謝を伝えてほしいと、何度頼まれたことだろうか。そんな人だった。グラウンドでも外でも、変わらぬ魅力があった。
時を同じくして広島に戻った1人、盟友・黒田博樹氏はかつて新井を、「プライドを捨てるプライドがすごさだ」と表現していた。
「彼のすごさを感じたのは、日本に戻った年ですね。どうしても年齢がいって過去の実績がある人は、それを捨てられない人がたくさんいる。特に新井は広島に戻って、プライドを捨ててまた一から野球をやるんだ、というのをすごく感じた。だから彼のすごさを語る時、ただ単純に、体が強いというだけでは、片付けてほしくないですよね」
2人の出会いは新井がドラフト6位で入団した1999年シーズン。黒田氏は「デカいな…と思った」と初対面の印象を語る。投手と野手。接点は多くない中、仲を深めたのは2003、04年。山本浩二監督(当時)の下、エースと4番として投打の柱を託された。
「あの年は2人で結構、参っていた時期も多かったですね。ちょっとお互いに、自分自身も勝てなくて、新井も全然打てなくてヤジも飛ばされて、という時があった。そのころから、置かれた立場も同じような境遇。そういう部分で親近感というのは、あったのかもしれないですね」
2人で頻繁に飲みにも出掛けた。「その時は結構、飲んだのは覚えています」。選手会長も務めていた黒田氏は新井と、ファンサービスの方法も話し合った。観客が1万人を割ることも珍しくなかった時代だ。「特に2000年台前半とかは市民球場にお客さんが入らない中で、ずっとお互いプレーしてきましたからね」。黒田氏、新井がグラウンドで見せる必死な姿、勝利への執念の背景には、当時の記憶があった。勝つことに飢えていたのだ。
わらわれて
しかられて
たたかれて-
大野寮とオーナー室には、球団方針を記す額縁が飾られている。愚直に強く、前向きに。「あいつはあの言葉そのものだな」。鈴木清明球団本部長は言っていた。FA移籍した選手の復帰。球団では過去に例がなく、内部にも少なからず反発もあった。「どの面下げて帰れば…」。困惑する新井に何度も電話を掛け、根気よく復帰を説得した。
プロ生活20年。ドラフト6位以下の大卒選手で史上初めて、2000安打を成し遂げた男は、野球人生の矜恃(きょうじ)をこんな風に語っている。「負けん気があるんだと思います。中央に負けるか、巨人には負けんぞ、と。みとけよ、広島の小さな町かもしれないけど、人気球団には負けないぞという負けん気。だからこそ誇りを持っていますよね。広島という町に、チームに」。反骨心は常に原動力だった。
冗談か、本気か。黒田氏は引退する前、「新井が監督をやるなら、オレが投手コーチをやる」と言って笑っていた。反応を聞きに行くと…。「アホ。オレにできるわけがないじゃろ。でも、クロさんが監督をやるなら、オレが監督付。監督付広報か、マネジャーをやらせてもらうよ」。実現するのはどちらだろうか。去りゆくさみしさは消えないが、野球人生の第2章も楽しみでならない。(デイリースポーツ・田中政行)