【野球】カープ3連覇「家族」で手にした勲章-「死ぬ前にもう一度、優勝が見たい」
ビールで全身をぬらした男が、マイクを手に力強く叫んだ。
「最高のチームメート…、いえ、家族とともにクライマックスシリーズを突破して、日本一のチャンピオンフラッグを広島に持って帰りましょう!!」
中心にはいつも、今季限りの引退を表明した新井貴浩内野手(41)がいた。球団史上初のリーグ3連覇。個々の力、技術だけで成し得た偉業ではないだろう。逆転のカープ。広島の軌跡を辿れば、鮮やかなアジサイの花が浮かんでくる。花言葉は「固い絆」。白色に青、紫、ピンク。個性豊かだが、色とりどりに奇麗な花を咲かす。
始まりは2016年。25年ぶりのリーグ優勝だった。25年-。文字にすれば簡単だが、流れた時の長さはいかばかりか。多くの人に見せることのできなかった約束のドラマ。地域球団の悲願達成を目前に、鈴木(清明)球団本部長がつぶやいた言葉を思い出す。
「たくさんの人に『死ぬ前にもう一度、優勝が見たい』と言われてね。かなえられなかった思いもある」
優勝から遠ざかった四半世紀の中で転換期は3つある。最も大きな波は2004年の「球界再編問題」だ。近鉄球団の消滅、合併。広島も球団消滅、合併、買収の噂が流れた。収入源だった放映権は半分以下に減った。実際は1リーグ構想の中でも存続が決まっていたが、同本部長は「カープはどうなるんだ…と。新球場を作らなければ、という流れになったのは事実」と振り返る。おらが街の球団をなくすな-と市民、経財界が新球場設立の機運を高めていた。
広島で募金と言えば「樽」が付く。球団設立2年目の財政難が始まりだが、新球場設立にも樽募金で1億を超える市民のお金が集まった。「募金を行政のお金に入れて、一緒にモノを作れるのは広島くらいだろう。小さな子どもや、みんなのお金でできている。だから自分たちの球場だと思ってくれる」と野平眞広報室長。原爆で壊滅した街の復興を旗印に、広島と共に歩んできた。街に根付いた「地域球団」として誇りがある。
新球場ができる10年以上前には、最初の転換期が訪れていた。1993年に「逆指名制度」導入。有望選手は人気球団に流れた。松田元オーナーは言った。「覆すだけの形や手段を見つけて、優勝ができると信じていた。一矢報いたかったが、結果的に甘かったんだ」。カープアカデミーの設立や、緻密なドラフト戦略。必死になって対抗する手立てを探したが、なかなか実を結ぶことはなかった。
同年にはFA制度も導入された。優勝を狙えるチーム力や、資金力で有力選手の移籍が進む中、現在でも広島は6球団で唯一FA制度での補強がない。そればかりか川口和久、江藤智、金本知憲、新井貴浩…。主力選手は次々と流出した。1994年は3位。翌95年は、アカデミー出身のロビンソン・チェコが15勝を挙げるなど大活躍したが、2位に終わった。96年は「メークドラマ」として、球史に残る大逆転を喫した。
「下位に沈んでしまうと、抜け出すのは本当に難しかった」。オーナーが明かすように、チームは負のスパイラルにはまった。以降は15年連続、Bクラスの低迷期に突入。だが、制度の不利に辛酸をなめたが抵抗、対抗し続けたの歴史は誇りでもある。裏金問題で2007年に希望枠撤廃が議論されたが巨人、ソフトバンク、そして広島の3球団が反対した。そこにプロ球団としての矜恃があった。鈴木本部長が明かす。
「なくなれば球団にとってはプラス。ただ、日本球界にとって選手の希望を全く聞かなくなれば、メジャーに志向を変えてしまう懸念があった。例えば、自分の子がそういう状況になったら、どうなのか。12球団のことを考えないといけない」
そんな中、2004年に「球界再編問題」が起こり、前述の新球場設立に向けた機運が高まる。2007年に新球場が完成した。ハード面にグッズ販売など、ソフト面も充実させながら来場者数は上昇の一途。2015年には球団設立後、初めて200万人を突破した。「球界再編がなければ、もう少し完成は遅れていたかもしれない。時間はかかったが、誰が見てもいい球場になった。胸を張って提供できた、という思いがある」とは鈴木球団本部長。25年、時間はかかった。苦難、困難にも泣きながら、乗り越えてきた25年。下に、下にと根を下ろした歴史は、3連覇という球団史上初の偉業を生んだ。新井の言うように広島の街全体で、「家族」で手にした勲章だ。(デイリースポーツ・田中政行)