【野球】星野イズム胸にライバル球団へ 平石洋介氏に刻まれた“英才教育”
亡き星野仙一氏が楽天監督時代。キャンプ中の休憩時間だっただろうか。好物の和菓子をほおばりながら、闘将から聞かれたことがあった。「お前、平石のことは昔から知っとるんやな」。楽天前監督でソフトバンクの1軍打撃兼野手総合コーチに就任した平石洋介氏が、現役を引退した直後の秋だったと思う。
1998年の甲子園を湧かせた“松坂世代”の平石氏は、PL学園の外野手で主将だった。左肩の故障に苦しんだ高校生活。試合に出られない時期が長かったが、スター軍団だった当時のPLナインを強いキャプテンシーでまとめた。3年夏の横浜との「延長十七回」で三塁ベースコーチだったことはよく知られている。
高校生ながら冷静な判断力を持ち、熱血漢でもあった。人望の厚さから当時の河野有道監督は、平石氏を次代のPLの監督にと考え、同大時代には「教職課程をとって教員に」と強くすすめていたほどだった。しかし、平石氏はプロ野球選手になる夢を貫き、社会人のトヨタ自動車を経て新規参入の楽天にドラフト7位で入った。
当時のPL学園を担当していた記者は、彼のリーダシップと野球への情熱を知りうる限り述べた。黙って聞いていた星野氏は、ニヤリと笑って「そんなこと、お前に言われんでもわかっとるわ」とつっけんどんに言った。
話には続きがあった。「楽天を、巨人や阪神のような伝統球団にするのがオレの仕事やと思っとる。そのためには何が必要か。それは生え抜きの監督や。オレや田淵(幸一氏、当時ヘッドコーチ)はあくまでつなぎ。そうでないとアカン」。そこでは「平石」の名は口にしなかった。だが、まだ何者でもなかった新人コーチの姿が、視界に入っていることは明らかだった。
通算122試合で打率・215、37安打、1本塁打、10打点。平石氏の7年間の現役生活は華やかなものではない。実績の少ない30代の若いコーチが年長者もいるチームを指導するのは、言葉に説得力を持たせることから難しい。だからこそ、星野氏は時間をかけて育てようとしていたと思う。2軍コーチから1年で1軍へ昇格が決まった時には「まだ早すぎる」と、球団の方針に異論を唱えた。
また水面下で、FA補強の調査をさせようとしたこともあった。これは、星野氏自身がそうであったように、フロントとしての資質も兼ね備えていると見抜いていたからではないだろうか。
1軍コーチになってからは、先発オーダーを星野氏に届けるのが平石氏の毎日の仕事になった。そのつど話すのは選手やチームの近況、他球団の戦況などさまざまだった。遠征先の部屋で、試合後に深夜まで話し込むこともあった。それは、巨人時代の長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の師弟関係をほうふつとさせた。“英才教育”は、星野氏が亡くなるまで続いた。
平石氏は監督代行を経て、19年に監督に就任。一時は首位を争い、最後は意地のクライマックス・シリーズ進出にこぎつけた。しかし、続投要請はなく、今季限りで古巣を去った。楽天一筋15年。身を切る思いで決意したと思う。初の生え抜き監督を失った仙台のファンの気持も想像に難くない。
一方で、天国の星野氏はどう思っているだろうか。それを想像してみると、あの秋のキャンプで何気なく平石氏の話をした時のにんまりとした笑顔が心に浮かんできた。球団から用意された統括ポジションを辞退して新天地を選んだまな弟子の決断に、「あいつ、やるやないか」とほくそ笑んでいる気がした。
星野氏の「楽天を伝統球団にする」という夢は、そこにとどまるものではなかった。命がけで追い求めた、球界全体の発展を目指す中での命題の一つだった。
生前の星野氏はよく言っていた。「迷ったらGOや」。前に進んだ平石氏は、ライバル球団のユニホームを着る。かつて中日から阪神へと戦場を移した闘将のように。彼の中の星野イズムが、どのように昇華するのか。誰より熱く見守っているのは、あの燃える男だろう。(デイリースポーツ・船曳陽子)