【芸能】紙ふうせん 夫婦デュオ、74年に結成し今も燃えるフォーク魂…結成45周年
1970年代の日本音楽界を席巻した「フォーク」は、もはや死語となりつつある。そのフォークを今も歌い続けているのが、1974年に結成された後藤悦治郎(73)と平山泰代(72)の夫婦デュオ「紙ふうせん」だ。
ご存じの方も多いと思うが、後藤と平山は関西出身のフォークグループ「赤い鳥」のメンバーだった。赤い鳥は1969年に行われた「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場、「竹田の子守唄」でグランプリを獲得した。それをキッカケに音楽プロデューサー・村井邦彦氏(74)に見いだされ、メジャーデビューを果たす。当時はいわゆる「関西フォーク」の全盛時だったが、華麗なコーラスを駆使したライトロック系のサウンドは“異色”だった。
後藤は「赤い鳥は村井さんが作ったグループですよ。関西では赤い鳥はフォークじゃないといわれてました。あのころの関西にはすごい人がいましたからね」という。後藤が名前を挙げたのは、「岡林信康」「高石ともや(当時友也)」「フォーク・クルセダース」「高田渡」など、日本のフォーク界を語るうえには避けて通れないレジェンドばかりだった。
赤い鳥は村井氏のプロデュースで都会的で“洋風”なグループに変身する。平山は「あの当時に(村井氏は)赤いスポーツカーに乗ってて。私たちも服やブーツを作ってもらいました。ヘアカットにも連れていかれて、あか抜けさせてもらいました」と振り返る。拠点を東京に移した音楽活動は平山いわく「マネジャーの車でどこへ行くのか分からないで連れていかれた」そうで、後藤も「年に200カ所ぐらい回ったこともある」という。当時の代表曲「翼をください」は、教科書にもなり、教育現場での代表的な合唱曲として名を残している。
その赤い鳥は1974年に解散し、2人は紙ふうせんを結成。5人のオリジナルメンバーの残り3人、山本俊彦(故人)、新居潤子(後に結婚して山本潤子)、大川茂は「ハイ・ファイ・セット」を結成し、村井氏のプロデュースと松任谷由実の楽曲カバーで、いわゆる“ニューミュージック”系の旗手となっていく。紙ふうせんも1977年にリリースした「冬が来る前に」が大ヒットし、今もカラオケなどで歌い継がれている。
2人に音楽の原点を問うと「PPM」と即答えが返ってきた。PPMとは、1960年代に米国で活躍したフォークトリオ「ピーター・ポール&マリー」のことで、男性2人に女性1人という構成だった。ベトナム反戦のメッセージを全世界に送り出し、その後ブームとなる日本のフォークに大きな影響を与えた。2人を貫く歌の世界には、今なお“フォークの魂”が残る。赤い鳥結成前はフォークデュオとして活動していただけに、それも当然といえるだろう。
平山は同じ女性の新居を「彼女は自然にうまいんです。すてきだなと思いました」という。新居は山本と結婚したが、山本は2014年3月に急死。新居はショックのあまり、以降音楽活動を停止したまま。公の場にも姿を見せていない。平山は「まあ、個人、それぞれの事情があるでしょうから」と話しており、もはや、赤い鳥が復活することはないと示唆した。
2人は東京から関西に拠点を戻し、大の阪神ファンである後藤は「西宮、甲子園の近所です」とうれしそうに言う。後藤は今年の矢野阪神の戦いを「よく頑張ったと思うで。100点じゃない。来年、再来年が楽しみやな」とニンマリ。来年の成績を「2位ぐらいじゃないかな。まだ優勝したらアカン」と独特の阪神愛で順位を予想した。
12月1日には、東京・よみうり大手町ホールで「紙ふうせん45周年 赤い鳥から50周年記念リサイタル」を行う。(デイリースポーツ・木村浩治)