【スポーツ】父子五輪へ…丸山城志郎を育てた厳父、心の指導 「心」取り上げ改名
柔道の国際大会、グランドスラム(GS)大阪大会が22~24日に丸善インテックアリーナ大阪で開催される。今夏の世界選手権(日本武道館)金メダリストがこの大会も優勝すれば五輪代表に決まる可能性があり、男子66キロ級王者の丸山城志郎(26)=ミキハウス=もその1人。昨年11月以降は5大会連続優勝中で、17、18年世界王者の阿部一二三(21)=日体大=には直接対決で3連勝。鬼気迫るような強さのルーツを探るべく、92年バルセロナ五輪男子65キロ級代表でもある父・顕志さん(54)に話を聞いた。
破竹の勢いで勝ち続け五輪代表を射程に捉えた丸山だが、かつて“心”を失っていた時期がある。中学時代、なかなか先に技を出せずぶざまに敗れた息子に対し、父・顕志さんは非情に言い放った。
「『お前には心がない。もう心を書くな』と。表彰状から何から全部『城士郎』にさせました」
顕志さんが7位に終わった92年バルセロナ五輪の翌年に次男として生まれ、「日本武道館のような“城”を建てたい。城を志す男になってほしい」という願いを込めて「城志郎」と名付けた。1歳上の兄・剛毅とともに3歳から柔道を始めた丸山は父の英才(スパルタ)教育を受けていたが、勝負どころで淡泊な戦い方をしてしまうのが昔からの課題。“心”を没収されて「城士郎」と名乗っていた時期は、大学1年時の全日本ジュニア選手権で優勝するまで続いた。丸山家の厳しさを物語るエピソードの一つだ。
トレーニングも厳しかった。天理大の穴井隆将監督をして「日本刀のような切れ味」と言わしめる丸山の内股は顕志さんが授けた強力な武器。軸足を、跳ね上げる足と同じ位置に置き換えるようにして入る技術だけでなく、破壊力を生む強靱(きょうじん)な足腰をつくり上げたのは、幼稚園児の頃から課した5階建ての自宅マンションの階段で毎日10回ダッシュする特訓だ。「階段をわざと真っ暗にして見えないように。下で『幽霊が出るぞ!』って言って泣かせながら走らせました」
福岡に引っ越した後はさらにエスカレートし、27階建てのマンションの非常階段を下から上まで走らせた。「らせん階段なので上から全部見えるんですよ。上から見てると、あいつ、そろそろええやろってサボるんですけど、全部見えてるので『もう1回!』って(笑)。小さい頃から足場の悪い地面や階段を走ることで、不思議とバネがついて技のキレにつながる」
大学時代に“志”を取り戻した丸山だったが、順風満帆にはいかない。13年冬に左膝前十字じん帯断裂という大ケガを負ってしまう。翌年、彗星(すいせい)のごとく現れたのが当時高校2年だった阿部一二三だった。「こういうタイプは走らせたら止められない。私は古賀稔彦(バルセロナ五輪金メダリスト)で経験している」
初対戦の15年講道館杯は丸山が制したものの、翌16年4月の全日本選抜体重別選手権では苦杯。父が懸念していたとおり、そこから世界選手権を2連覇することになる阿部とは大きく水をあけられた。「『お前が日本代表になるならここが勝負どころだぞ』と言っていたのに、ハートがない試合をしたんですよ。指導で負けて」。東京五輪代表争いを占う大一番を落とした息子に、顕志さんはカンフル剤として“絶縁”を切り出した。
「お前とは連絡する気もないし、ハートがない試合は見たくもない!」
同じ勝負の世界を生きてきただけに、畳に上がる上での最低限の要素が戦う心だと考えてきた。
「いざとなったら相手にかみつくくらい、さめた闘志がないと生き残れない。心技体が全部100点で300点の選手はいないが、心が300点で技が0点、体が0点でも戦えるんですよ。心の鍛え方はどこにもマニュアルはない。孤独と向き合うしかない。『二度と連絡するな。その代わり、お前がどうしても見てほしい試合があったら連絡してこい』と伝えました」
それから3年半の月日が流れ、世界選手権直前の今年8月14日。連絡を絶っていた丸山から「勝負を懸けるから話を聞いてほしい」と知人を介して連絡があった。自宅で久々に対面した丸山の口から出たのは「世界選手権を見に来てほしい」という言葉。表情は鬼気迫るものだった。
「今までと別人みたいにえらい顔をしていて、これは世界一になりよるぞと思いました。そこまで変わったんだったら行くわと」
武道館の観客席から見た光景はこれまでにないものだった。阿部との準決勝は事実上の決勝戦。序盤、阿部の強烈な背負い投げを必死に耐えて着地した際に右膝を痛めて万事休すかと思われた丸山だが、そこから逆に前に出続けた。延長戦に入ってからもライバルを追い込み、最後は執念の捨て身技で勝利。そんな息子の姿に確かな成長を見たという。
「オーラを感じましたよね。世界の阿部君に対して、足を引きずった選手が勝てるわけがない。あそこから盛り返す精神力には感動しました」
テーゼのように繰り返される「心」というキーワード。それは自身が悔恨とともにバルセロナで胸に刻んだ言葉だ。五輪出場という輝かしい経歴は、顕志さんにとって屈辱の足跡でもある。「私は一番やっちゃいけないことをやった」。誰にも負けない自信を持って絶好調でスペイン入りしたものの、男子65キロ級は6日目。現地生活での時差ボケや長い日照時間のせいで全く寝付けない日々が続き、精神的に追い込まれた。それがピークに達した試合前日、医師に睡眠導入剤を処方してもらったが、「半分に割って飲んでください」という忠告を聞かず1錠丸ごと飲んでしまった。そして試合当日。薬の効果が残ったままで体が動かず、足に踏ん張りもきかずに惨敗に終わった。
「一番は心の弱さ。何かに頼り、すがってしまった。だから子供に言っているのは『五輪には魔物がいるが、それは己の心なんだ』と。五輪代表になるまでが大変だったのでホッとして、どこかで満足したんでしょうね」
だから今、阿部とし烈な代表争いを演じている丸山の状況は27年前の自身の姿にも重なる。「絶対何が何でもという思いがあったから五輪代表にまでなれた。ただ、何が何でも金メダリストになるんだという思いがあったかといえばクエスチョン(疑問)。だからあいつには、特別な思いをどこにフォーカスを当てるかという話をしています」。五輪代表はあくまで通過点。その先にある金メダルを獲るまでは心を燃やし尽くせ。それが父の願いだ。