【野球】小田幸平 携帯に遺書を残した男のサヨナラ打
第一印象は最悪に近いものだった。2006年1月のナゴヤ球場。巨人にFA移籍した野口茂樹の人的補償として中日に移籍してきた小田幸平。初めて合同自主トレに参加した彼を取材したいと球団広報に頼み込み、練習終わりで時間を作ってもらった。
選手ロッカーから出てきた小田は、明らかに不機嫌そうだった。そして「なんすか?別に話すことないんですけど」と切り出してきた。その後、いくつかの質問を投げかけたが、「いや、特に」「そうですね」の連発。イメージした答えを引き出すことができず、力不足を痛感したのを覚えている。
心の距離が一気に縮まったのは2月のキャンプ。食事の約束をしていた井端弘和が、「もうひとりいいですか」と連れてきたのが小田だった。初めての名古屋生活をサポートしてくれていた先輩が紹介した人、ということで気を許してくれたのだろう。爆笑トークで宴席を盛り上げ、その後も麻雀、パチンコと趣味の話に花が咲いた。
本拠地・ナゴヤドームの試合で二塁打を放つと、副賞として「おこめ券」がもらえるのだが、いつも「これで腹一杯ご飯食べてください」とプレゼントしてくれる心優しき戦士でもあった。
11年5月12日。翌日からの甲子園での阪神戦を前に食事の約束をしていたのだが、一向に現れない。携帯電話もつながらない。心配になって球団関係者に問い合わせると、「少し体調が悪いみたいで」との返事。だが実は…。
大阪市内のチーム宿舎で倒れていた。手足が震え、呼吸困難に陥り、血圧は200を超えていた。意識が遠のく中、小田は携帯電話の動画機能を使って遺書を残していた。
目が覚めた時、捕手として本塁を死守した数々の激突プレーが脳内の血管を弱くさせていたと医師に告げられた。開頭手術をすればプロ野球選手を続けられなくなる可能性も伝えられた。まだ野球を続けたい-。開頭手術の道は選ばず、懸命のリハビリで1軍の舞台に帰ってきた。
7月5日の阪神戦。0-0で迎えた九回裏2死一、二塁。落合監督は一度、野本を代打に告げようとしたが、小田の尻をたたいて打席に送り込んだ。カウント2-2から小林宏のスライダーを左翼線に運んだ。プロ初のサヨナラ打。ベンチ総出のウオーターシャワーの中で何度も飛び跳ね、喜びを爆発させた。
「ここまで支えてくれた家族、チームスタッフの方々に感謝でいっぱいです」。野球ができなくなるかもしれないという苦しみを抜けた涙の一打は、7日に誕生日を迎える長男への2日早い感動のプレゼントになった。(デイリースポーツ・鈴木健一)