【野球】巨人 小笠原道大が導いた08年のメークレジェンド
2008年7月、ジャイアンツ球場を使って北京五輪野球日本代表の直前合宿が行われていた。球界はちょうどオールスター期間中。星野監督の下、最後の調整に各選手が挑む中で隣接する室内練習場のトレーニングルームで大粒の汗を流していた男がいた。巨人の不動の3番バッターだった小笠原道大だった。
07年オフに左膝関節半月板の内視鏡手術を受けた。その影響もあってか、翌08年は開幕から大不振に陥った。結果が出せない以上に痛々しく見えたのは、左足を引きずるように一塁まで走っていた姿。本人は「関係ない」と一切の弱音を吐かなかったが、明らかに異様な姿だった。
前半戦の打率は・250前後。チームも阪神に大差をつけられ、7月8日の時点で13ゲーム差が開いていた。有力視された北京五輪日本代表からも外れ、球宴出場も逃した小笠原。「何かを変えないといけない」。考えて導き出した答えが球宴期間中のハードトレーニングだった。
高いボックスを用い、左膝に全体重をかけて曲げ伸ばす。重いメディシンボールを持ち、左足一本で立ちながらスクワットを行う。まるで左膝が壊れてしまうのではないかというほど、強烈なトレーニング。部屋のドアが開く度、苦悶(くもん)の表情を浮かべる小笠原の顔が見えた。
その姿は公式戦が再開されてからも変わらず、まだ明かりもついていない試合前の東京ドームで、トレーナーと地道なトレーニングを続けた。その様子は鬼気迫る感があり、スタッフも報道陣も黙って見つめていた。誰もが「試合前に大丈夫か?」というほどの濃密さだったのをよく覚えている。
それが功を奏してか、8月以降、左足を引きずりながら一塁を駆け抜ける小笠原の姿はなくなった。不安が解消されたガッツは、前半戦がウソだったように打ちまくり、9月3日に京セラドームで行われた広島戦ではサイクル安打も達成。同11日からは12連勝を記録し、その間も4番・ラミレスとともに力強く打線をけん引した。
10月8日に阪神との直接対決を制し、141試合目にして単独首位に立ち、優勝へのマジックナンバー2が点灯。その勢いを持ってセ・リーグを制し、連覇を果たした。
シーズン後、小笠原へインタビューした際に「この優勝は自分一人の力ではできなかったこと。苦しかった時を支えてくれた人とか、みんなのおかげだと思う。本当に感謝しかない」と語っていた。一方で周りの若手選手は、その姿を見て「ガッツさんがあそこまでやっている。自分たちはもっとやらないといけない」と口をそろえるようになった。
日本ハムからFA移籍した06年オフ、それまでは故障者が続出し、“巨弱体質”と揶揄されていた。そんなチームが小笠原の姿で変ぼうを遂げ、07~09年、12~14年と2度の3連覇を成し遂げたチームの礎になった。
今年から日本ハムのヘッド兼打撃コーチに就任し、2月のキャンプではハードトレーニングを選手たちに課していた小笠原。その姿を見て、現役当時、誰よりも自分を追い込んでいた姿を思いだした。次代の選手育成へ、“ガッツイズム”を浸透させることができるか-。開幕後、日本ハムがどう変ぼうを遂げるかも楽しみだ。(デイリースポーツ・重松健三)