【野球】「母の日」に思い出す阪神03年V 歓喜の裏で知った悲報
母親が後期高齢者と呼ばれる年代となった。今のところ体は元気で大きな心配はないのだが「母の日」の贈り物は考えるようになった。以前は妻に任せっきりで両方の母親に花を贈っていたが、今年は血圧計をプレゼントした-。
「母の日」になると毎年、2003年の阪神優勝を思い出してしまう。なんだが「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな感じだが…。
この年、阪神は星野仙一監督の下、前半戦から快進撃。7月8日にセ・リーグ最速でマジック49を点灯させると、そのまま1985年以来の優勝へと突き進んでいった。
9月15日、デーゲームで広島にサヨナラ勝利を収めてマジック1。その後、マジックの対象となっていたヤクルトが横浜に敗れ、阪神の18年ぶり優勝が決まった。甲子園で行われた星野監督のインタビューの第一声「あーしんどかったっ」にスタンドがドッと沸いた。
取材を終えると、バックネット裏の記者席へ向かって階段を駆け上がった。ある程度書き上げていた1面原稿に優勝コメントを突っ込もうとしていたとき、私の携帯電話が鳴った。星野監督から担当記者の幹事社を通じ、2日前に母・敏子さんが亡くなっていたことを伝えてきた。
闘将はそんな悲しみを一切、見せなかった。優勝当日の試合前、午前11時から行われた葬儀にも参列しなかった。女手ひとつで姉2人とともに育てられ、朝から晩まで働く背中を見てきた。子供のころ、ガキ大将ぶりが度を越して苦情がくれば、頭を下げてくれた母。星野監督の昔話には「おふくろが…」とたびたび出てきた。
2001年オフ、中日の監督を退任し、阪神監督就任が決まるまでの間のこと。母から言われたという言葉が今も心に残っている。
「中日をやめた?それでごはんは食べていけるのかい?」
これを聞いたとき、何とも言えない気持ちになった。「おふくろがそんなことを言って心配してくれてなあ…」。中日で一時代を築き、プロ野球界を代表する一人になっていても、いつまでも自分を子供扱いする母の話をしたときの表情は、どこかうれしそうにも見えた。
晩年は大阪で娘家族と暮らしていた敏子さん。阪神監督時代、「近くに住んでいるのに、めったに会いに行かん」と笑っていた息子。今はまたガキ大将に戻って一緒に暮らしているだろうか…。(デイリースポーツ・岩田卓士)