【野球】8月6日がつなぐ平和への道 被爆75年とカープ誕生70年
またあの日がやってきた。75回目の夏。
広島出身で広島、阪神で活躍した新井貴浩さん(デイリースポーツ評論家)は、8月6日「原爆の日」への思いを語った。
「広島で生まれて広島で育った自分としては特別な日。原爆が落とされた日ということで、小さいころから授業の一環として平和教育がたくさん盛り込まれていた」
プロ通算20年で2203安打、319本塁打を放ったスラッガー。今年球団創設70周年を迎えたカープが、2016年に25年ぶりに優勝、そして17、18年と球団史上初の3連覇へとチームを導いた。
球団の歴史に残る快挙を花道に2018年限りで現役を引退し、現在は兵庫県に住み野球評論家として活躍。故郷を離れていても8月6日に特別な思いをはせる。
「原爆ドームとか平和公園、また原爆資料館ですかね。小さなころから何回も何十回も行っていました。特に資料館は子どものころの記憶としてすごい怖いところというイメージが残っています。人形とか置かれていて、皮膚がただれて熱いよ、痛いよと子どもが言っていた。当時の写真とか見て戦争は悲惨、原爆は怖いということをすり込まれています」
今から75年も前のできごとだが、広島では代々語り継がれてきた。残された写真や映像を心に刻み、歴史をしっかりと受け止めている。
1945年8月6日、午前8時15分。
アメリカ軍によって広島に世界で初めての核兵器、原子爆弾が投下された。爆心地は焼け野原となり、広島の街は焦土と化した。
ドーンというごう音とともに家を飛び出した13歳の少年は、近くの土手に駆け上がると北西の空に「雲」が見えた。広島市街の方角だった。
「ピンク色の煙が上がってね。上空にいくとキノコ雲ができたんです。なんじゃろうかと思いましたよね」
広島市中心部から直線にして10キロたらずの安芸郡矢野町(現広島市安芸区)の自宅にいた長谷部稔さんは、今でもあの光景をはっきりと覚えている。
長谷部さんは5年後の50年に誕生するプロ野球チーム「広島カープ」一期生。当時は旧制中学の広島工業学校の2年生で、戦時中は学徒動員で大砲などを作る工場で働いてた。
今年の10月15日で89歳になる。原爆が投下された日は遠い昔の話だ。年齢とともに覚えが悪くなるのは自覚している。それでもあの日のことは、忘れることができない。
原爆が投下され1時間もしないうちに、近くの小学校に軍用トラックに乗せられた被爆者たちが次々と運ばれてきた。
「今のコロナと同じです。薬もないでしょ。人のうわさでやけどには油にススをまぜてやけどした患部に塗ると効くといって塗ってました。生きている人間でもうじがわくんですよ。そしてどこの人かわからん人が、次々と死んでいくんです。ばたばた死ぬから、グラウンドのへりに穴を掘って焼いていました。あれはひどかったですね」
真っ黒の体にうめき声。75年たった今もあの悲惨な光景は、脳裏にはっきり刻まれている。
3日後の8月9日に長崎に原爆が投下され、15日に終戦を迎えた。
広島市内に行くと言葉を失った。
「駅を降りたら、前まであった建物がないんですから。まあ、三日三晩焼けたんですから焼け野原ですよ」
復興への動きとともに広島駅周辺に闇市ができ、風紀が乱れた。同世代の学生がたばこをくわえ、たむろしている。
「このままではだめになる」
そんな思いから、上級生や仲間たちと野球をはじめ、輪を広げることにした。
学制改革で皆実高となり49年、3年の夏には4番捕手として西中国大会に出場。山口代表の柳井高に敗れ、甲子園出場はかなわなかったが、大型の強肩捕手としてチームを支えた。
広島は、戦前から野球王国といわれた。戦前に行われた旧制中学の春の選抜大会、夏の全国大会で広島商、広陵中、呉港中が全国制覇を達成するなど、野球が発展する土壌はあった。
被爆からわずか5年、1950年に復興の旗印としてプロ野球チーム「広島カープ」が誕生した。
長谷部さんは高校卒業前に入団テストに参加し、石本秀一監督に強肩が認められ「今すぐ契約書にはんこを押せ」と、4時間説得され入団した。こうして球団創設1年目のメンバーに名を連ねた。
他球団からの選手や新人を集めたチームは勝てない。当時は入場料収入を勝ちチームに七分、負けチームに三分で分配されていたことも市民球団の資金難に拍車をかけた。
51年春には解散寸前まで追い込まれたほどだった。
「給料をまともにもらえなかった。球団に金が入った時には、まずは妻帯者から。独身だった私なんかは、『がまんせいよ』と言われて1000円ずつもらっていた」
資金難のチームに県民からの寄付が送られた。警察官による募金が石本監督に届けられたのをきっかけに、支援の輪が広がり、本拠地の広島総合グラウンド入り口に寄付を募る四斗だるが置かれた。これがいわゆる「樽募金」だ。
練習後には、街頭で鉛筆売りをしたことも。加えて石本監督をはじめ選手は、県内各地で後援会発足のお願いをして回った。
「矢野の出身ということもあり、呉なんかの劇場を回った。3、4人で行ってベテランや主力の人は野球の話をして、私は3番手捕手で試合にもあまり出ていなかったので、歌を歌ったりして協力を求めた。炭坑節なんかも歌った」
“男芸者”として資金を調達した。
「広島の人は生活が苦しいのに募金とかで協力してくれた。野球で元気づけて復興しようと考えていた」
地域に根ざした球団、おらが街のチームとして広島県民が支え、東洋工業(現マツダ)社長の松田恒次さんが球団社長に就任したのをきかっけに資金難が解消された。
「金は出しても口は出さんというのが松田恒次さん。あの人は立派じゃったな。あれから給料の遅配はなかった」
恒次さんは初代オーナーとなり、耕平さん、元さんと3代にわたって今もカープを率いている。
カープ70年の歴史において苦難の道、低迷期を経て75年に古葉竹識監督が率いる赤ヘル軍団が球団創設26年目で初優勝した。
平和大通りでは優勝パレードが行われた。優勝監督の古葉さんは当時のことを「原爆にあわれて家族を亡くした人が遺影を持って『ありがとう』と言ってくれたのを覚えています」と振り返っている。
「原爆が昭和の負の遺産ならカープは復興の光。どっちがどっちということはない。二つが両立してこれだけすばらしい町になった。戦争で原爆が落ちていなかったらカープはできていなかったし、ここまで熱くなっていなかった」
そう語るのは、球団の歴史を語り継ぐ「カープかたりべの会」代表の大下達也さんだ。
2007年に広島市東区の二葉公民館で「カープ昔話講座」が開かれ、熱狂的なカープファンの大下さんは聴講者として参加した。
08年限りでカープの本拠地として役目を終える広島市民球場の歴史を建設会社の人や初代うぐいす嬢、地元放送局アナウンサーが講義した。そして元球団職員の渡部英之さん、長谷部さんらが語るカープの歴史など4回の講義を受けた。
「アンケートをとると圧倒的にカープの話が多く、続編の企画をするという話になった」
球団創設期の苦労話から初優勝までこぎつけた26年を主体に2人が話す。
「わしらの代で終わるのは惜しい」
そうやって08年に「カープかたりべの会」が発足した。
約30人のメンバーは、それぞれが渡部さんや長谷部さん、カープOBから資料や昔話を仕入れ、依頼があれば学校や修学旅行の団体のもとに出向く。紙芝居やスライドを使用しながら説明するものもいれば、大下さんはかたりで聴講者の心を打った。
広島市では被爆体験を語る「かたりべ」が高齢化で少なくなり、被爆者体験伝承者養成事業で、被爆体験や平和への思いを受け継ぎ、それを伝える人たちを育てている。
4期生として研修を受けた大下は「かたりべの方は高齢になっているけど、オーラがある。ポツリ、ポツリでも響くんですよ」という。
これをカープの昔話をするときにも独自のかたりで聴講者の心に響かせる。
「まるで見て来たかのようにかたりますから。おごっているかもしれませんが、僕より上手にできる人はいませんから」
今では全国区となったカープだが、その歴史は決して平たんではなかった。
「原爆を投下された町だからカープに熱を入れていた。他の地域だったらつぶれていたと思う。弱い球団と自分たちの苦しい生活を重ね合わせていたんでしょうね。だから負けても負けても応援した」
原爆とカープは一本の線でつながっている。
09年にマツダスタジアムに本拠地を移したカープは、その年の9月に平和を願い「ピースナイター」を開催。11年には8月6日、原爆の日に「ピースナイター」を開催した。
旧広島市民球場は道路を挟んで原爆ドーム、平和公園へとつづく。平和記念式典が行われる8月6日は、1958年の試合を最後に条例で野球場が「休場日」になり、試合が行われることはなかった。広島でホームゲームが開催されるのは実に53年ぶりだった。
原爆と歩んできたカープにとって歴史的な日である。初優勝から黄金期を築き上げた古葉さんや鉄人・衣笠祥雄さんも球場に姿を見せた。
三代目として球団を率いる松田元オーナーは「8月6日に原爆が落ちたということを各人が感じ、考えてもらえることになればいい。いかに平和が大切か。8月6日に試合をやった意義はあった。私の世代は2世だが、今回は3世の世代がこのセレモニーを取り仕切った。そうやって徐々にしたの世代へ伝えていくのが我々の球団の仕組みであり、役割でもある」とコメントしている。
この精神は球団創設70周年の今年も伝わっている。
8月7日の阪神戦で「ピースナイター2020」として開催する。
今年は東京五輪が開催予定だったため、8月6日前後はプロ野球も休止の予定だった。それが新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京五輪延期となり、プロ野球の日程が変更になったため8月7日に開催される。
また、6日には「8・6平和の光」と題し、マツダスタジアム内野自由席に設置した6個のライトを天に向けてかざす。これは広島の歴史を理解し、次世代へ継承するため、球団の県外出身新入社員が企画し取り組んでいる。
2015年に阪神から広島に復帰し、カープのユニホームを着てピースナイターを経験した新井さんは言う。
「亡くなった方への追悼の気持ちもありますし、平和に野球ができるのも当たり前じゃないんだ。野球ができることに感謝の気持ちをもってプレーしていました」
広島で生まれ育った新井さんは、特別な思いを胸にグラウンドに立った。そしてチームメートの心の変化にも気づいていた。
「広島で育ってきた人間とそうでない選手は最初、受け止め方は違うと思う。でも何年も何年も広島でプレーしてる選手は同じ受け取り方をしていると思う」
平和を強く願う気持ち。18年11月、MLB選抜の一員として広島を訪れた前田健太(現ツインズ)は平和記念公園を訪れた。
「広島では9年間プレーして僕にとって大切な町です」
MLBの代表として原爆死没者慰霊碑に献花を行った。
今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で平和記念式典も規模を縮小して開催することが決まっている。
70周年を迎えたカープも3月26日の開幕戦でレジェンドOBを招いて盛大なセレモニーを開催する予定だったが、開幕自体が延期となりセレモニーがなくなった。
招待を受けていた長谷部さんは「バックスリーンから歩く予定でした。年だから歩けるか心配していたんですが、私を招待してくれるんですからありがたいです」と言う。
球団創設時のメンバーは長谷部さんをのぞいて全て鬼籍に入った。原爆が投下され75年。カープが誕生して70年がたつ。
長谷部さんは言う。
「野球の力で元気づけよう。それが願いだから」
新型コロナウイルス感染拡大で全世界が苦しむ今だからこそ原爆から立ち直った広島から勇気を与えたい。「75年は草木も生えない」と言われた街が、見事な復興を遂げたように。(デイリースポーツ・岩本 隆)