【野球】藤川球児の“恩人”元個人トレーナーが語るブレーク秘話
兵庫県芦屋市に居を構える「檜作鍼灸接骨院」の檜作英太院長は、ダイエー(現ソフトバンク)と阪神でトレーナーを務めていた。今季限りで現役引退の阪神・藤川の個人トレーナーでもあったが、出会いは阪神に入団した05年、「JFK」が結成されて優勝した年だった。
「キャンプで初めて見た時、すごいピッチャーやなと思って。斉藤和巳投手のボールとダブって見えました」
檜作氏は01年から04年のダイエー時代、03年に20勝をあげて沢村賞も受賞した斉藤氏のすごさを間近で見ていた。「初めて見た時に球児にまっすぐの握りを聞くと、中指と人差し指を離さずに付ける握りを見せてくれて。一般的に中指と人差し指を離す人が多い中、その握りも斉藤投手と同じで驚きました」。ただ、同時に疑問も湧いたという。
「『めっちゃいいボール投げるやん』と言ったのと『なんで今まで活躍できなかったんや?』と。すると、わりとケガをするというか『痛くなるんです』と教えてくれて」
それまでの藤川はケガでチャンスをつかみきれないところがあった。「僕は僕なりに、ダイエーから移って1年目でプレッシャーもあって(笑)」。阪神1年目の檜作氏にとっては、気持ちを一つにしやすいところもあり、2人の合言葉も明確なものになった。
「『それなら体のことは任せてくれるか』と。『しがみついてでも、1年間1軍で仕事をしよう』と話し合ったところから始まって。結局80試合登板までいきましたからね」
大車輪の活躍でリーグ優勝に貢献した1年。藤川は当時も「檜作さんのおかげ」と話しているが、順風満帆だったわけではない。檜作氏は「お互いプロとプロとしてケンカしたこともあった」と言い、「実際に3、4回ぐらい体的に危ない時もあったので」と回想する。ただ、そういった中で絆が強まり、圧倒的なパフォーマンスにもつながった。
檜作氏は07年に阪神を退団して独立。その際すぐに藤川から個人トレーナーを依頼されたが一旦断った。阪神で藤川との関わりを注目されたが、実際は他の選手のケアにも全力を注いでいた。藤川ありきと見られることへの違和感と、独立への責任感もあった。
「ここをオープンしてすぐに球児に付いたら、球児おらんかったら食べていけないとかなっても嫌やなと。スタッフもいて、自分で食いぶちを確立するまで、『3年待ってくれ』という話をしていたら待ってくれて。オープンして4年目から3年間、パーソナルで付きましたね」
藤川の引退には「球児の決めたことに何か言うことはなく『十分がんばったんじゃないか』と話しました。成績が出始めて注目されてから人間的に成長するスピードも早かったですね」と話す。
立場は変わっても、2人の関係性はこれからも変わらない。