【野球】カープ号運転200万キロ 用具の他に殿堂入り選手も“運んだ”名物トラック運転手
かつて広島カープに、用具運搬係として日本中を走り回る名物ドライバーがいた。前眞澄さん(69)。丸眞運輸の社長でありながら今なおハンドルを握るその前さんが、カープ時代の思い出話を語った。
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前さんと聞いてピンとくる人は、かなりのカープ通だ。身長162センチ、体重50キロ。小柄な体でカープ号という大型のトラックを操ること40年。2016年6月に総走行距離200万キロという“大記録”を打ち立てた後、前線から退いた知る人ぞ知る広島の小さな鉄人だ。
「浩二さんっ、後ろのベッドに転がっといてください。頭はこっちですよ」
ミスター赤ヘル・山本浩二が選手として乗車した“お客さん”第1号だった。野球用具の運搬を目的に導入されたトラックだったが、時として選手を“運んだ”。近距離移動では、腰を痛めていた山本浩二ら選手にとっても、ありがたい存在だったようだ。
1列目に運転席と助手席がある。2列目が寝台。寝台を使う場合は運転席の後ろに頭を置き、助手席の後ろに足を置く。これがルールだった。
「とっさのとき、運転手は人間の本能で必ず障害物を避けようとするから、助手席側は危ない。だから横になるときの体の向きも決まってたんですよ」
こんな決まり事を守って達川や野村、前田らも選手時代は前さんのお世話になったという。
「新聞記者さんも、おカネがなくなったら乗せてくれって来てたね」
前さんは寝ない人でもあった。目薬ひとつで目的地までまっしぐら。東京遠征の帰りは、夜中の零時に宿舎のあった品川を出発して昼ごろには市民球場(当時)に到着し、カープのジャージーに着替えてノックの手伝いや球拾いに加わる。まさに鉄人と呼ぶにふさわしい人だった。
「寝たくても緊張して寝れない。試合に遅れたら補償が1億5000万とか2億だから(笑い)。どんなトラブルがあるか分からんし。ここまで来たら大丈夫、というところまで行ってから休んでたね」
自動車整備士から縁あってカープ号のドライバーに。広島初優勝翌年の1976年だった。一時期、免許の失効期間中に「いい機会だから」と寿司店で働き、転職を考えていた。そんなときだった。居場所を山本浩二に探し当てられ、「お前、戻ってこいや。代わりはどうもならんで」と言われては断ることもできず、カープに復帰した。
200万キロも走れば重大な事故も経験する。三村敏之監督最終年の1998年。北陸遠征の帰りに敦賀のトンネルで自損事故を起こした。前輪がパンクし、車体が右の側壁に激突したまま数十メートルスリップ。「頭や顔、ひざは血だらけ。右のひじから手首も。指はほとんど折れとった。あんときは死んだと思った」が、半年間の入院でまた復活した。
今となってはそれもまたいい思い出だ。
「若いころの監督は古葉さん。気性は激しいけど、優しい人で、遠征先のホテルを出るときは必ず“気をつけて帰ってね。寝てから帰ってくれてもいいんよ”と声をかけてくれた」
「20年ほど前、独立したときにケリをつけて辞めようとしたら、はじめさん(松田元オーナー)から“続けてやってくれ”と言われてね。40年も続けられて、本当に感謝しかありません。カープは家庭的なチームやったですよ」
野球を愛し、カープを愛した小さな鉄人、前さんに松田オーナーも心を込めて賛辞を贈る。
「前さんは、選手が道具を持参していたのをトラックで運ぶようになった時代の先がけ。練習の手伝いまでしてくれてね。チームに尽くしてくれた人ですよ」
こちらも感謝の言葉が絶えなかった。
前さんの“引退”後は甥の洋央さんが二代目を継いで、日夜、カープのために走り続けている。(デイリースポーツ・宮田匡二)