【野球】一時は意識も消失…白血病と闘い、名球会投手を支えたのは…北別府学さんの「特別な開幕」

 苦しい入院生活を終え退院し北別府さん(前列右)の誕生日を祝う家族=2020年7月(北別府さん提供)
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 2021年、プロ野球が新しい幕を開ける。

 北別府学は生きていることを、今日ほどありがたいと思ったことはない。白血病となり、コロナに追い打ちをかけられながら必死に闘い、ようやくたどり着いた。

 「今はね、去年のことを思い出してます。野球が開幕するのに、オレは入院かよって」

 かつて広島の開幕投手としてセ・リーグ最多の6勝を記録。

 引退した今でも緊張するその特別な試合を、つながれた命に感謝しながら見ようと思う。

 まだ球場へは行けない。自宅のリビングでテレビ観戦する。

 昨年は病院の一室で見るしかなかったのだから、これで十分幸せだ。

 特別な開幕。そこに至るまでの1年間は、試練の連続だった。

 血液のがんであることをはっきりと告げられたのは2019年の冬だった。

 「数値が非常に悪くなってます」

 やっぱり来たか。

 医師には数年前に、ほのめかされていた。

 たまたま別の病気で診察を依頼したとき、「もっと大変なものが見つかった」と言われた。

 それが成人T細胞白血病だった。

 はっきりとした自覚症状はその後もなかったが、医師の説明を聞けば、いつか発症するだろうと覚悟はしていた。

 「がんにかかるなんて思ってもみなかった。厳しい野球の練習に耐えてきた人間だし、不死身ではないかと思っていたくらいだったから」

 北別府は現役19年間で213勝を挙げ、名球会、野球殿堂入りしている。

 「絶対逃げない」を信条にマウンドに立ち続け、5度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献した。

 カープの黄金時代を支えた強い男に病気など無縁だと信じていた。

 しかし、隠し通せるものではない。いずれ野球解説の現場から自分の姿が消えることになる。ありもしない憶測が飛び交う前に告白しよう。

 家族と相談し、年が明けた1月20日、白血病に罹患したことをメディアで公表した。

 その日を境に北別府は、がんとの闘いに入った。

 抗がん剤治療を受けていた期間は、吐き気も熱もなく、「やっぱりスポーツで鍛えた自分の身体は強いな」と思っていた。

 ところが、造血幹細胞移植へと移行した5月以降、過酷な現実が待っていた。

 移植は白血球の型の適合率が高い次男の俊貴さんがドナーになった。

 骨髄バンクのドナー登録者には100パーセント一致する人がいたが、移植には至らなかった。緊急事態宣言の対象が全都道府県にまで拡大された新型コロナウイルス感染症が足かせになった。

 そのため適合率が100パーセントではない息子からの提供という形を取らざるを得なかった。

 感染の拡大を防ぐため家族との面会も許されなかった。不運が重なった。

 しばらくすると、拒絶反応が起き、闘病生活は想像を絶する苦しみをともない始めた。

 ひどい口内炎で水分すら満足に取れず、腸炎を発症して一時は意識もなくなり、予断を許さない状況に陥った。

 広美夫人は当時の様子を克明に記憶している。

 移植後の状態は芳しくなかった。

 医師が「あと一週間、様子を見ましょう」と伝えてくる。

 一週間後、「あともう少し…」と。

 その顔が徐々に暗くなっていくのが分かった。

 病室に持ち込めていた携帯電話に既読がつかなくなったとき、広美夫人の不安はピークに達した。

 「パニックになって先生に詰め寄ってしまうこともありました。七転八倒し、意識まで失っているのに会えないのですかと。それまでは、家族で乗り切ろうねと話していましたが、初めて主人の辛さが分かりました」

 2人の郷里は同じ鹿児島。北別府がシーズン20勝を挙げた1982年のオフに結婚した。お見合いだった。

 北別府は自他共に認める広島黄金時代の大黒柱。

 1976年に宮崎県立都城農業高校からドラフト1位で入団した。

 球速は140キロに満たなかったが、人一倍の練習量と向こう意気の強さで力の世界を生き抜いた。

 広島市の中心部が見下ろせる小高い住宅地にある自宅。

 その応接間に「不動心」と揮毫された書が額に納まり飾られている。動揺しない強い心、精神力。それは巨人の川上哲治さんの座右の銘でもあった。

 「これこそ投手の自分に必要な言葉」

 そう思い、いつしか色紙にこの言葉を添えて書くようになった。

 子どものころから気が強かった。だが、それだけでは生きていけないことも分かっていた。大切なのは「逃げない強い気持ちだ」と自分に言いきかせてきた。

 チームのために勝つ。自身の成績が上がれば家族の暮らしも楽になる。だから勝たなければならない。

 勝つための努力は怠らなかった。相手球団選手との接触は極力避けた。

 「親しくなると厳しいボールが投げられなくなる」

 死球も辞さないケンカ腰の投球スタイルは、繊細な性格の裏返しでもあった。ロッカールームの中でも余計な会話は控えた。

 「ベラベラしゃべると気が抜けてしまう。あのころは、すべてにおいて野球優先、ピッチング優先だった。一度でも気持ちが抜けると、シーズンが終わってしまうような恐怖感があった」

 気を張り続けることで、北別府は輝かしい記録を積み上げた。

 最多勝2回、最優秀防御率1回、最高勝率3回など野球選手の勲章といえるタイトルを6回も獲得。シーズンで最も活躍した先発完投型の投手に贈られる沢村賞を2回、最優秀選手賞(MVP)も1回受賞した。

 通算勝利数は213。20世紀最後の名球会投手…。

 だが、広美夫人はこうも振り返る。

 「ピリピリした状態が、現役を引退した後も続いてました」

 野球人北別府には周囲に人を寄せつけない雰囲気があった。

 気を緩めない。登板に集中したい。その張り詰めた空気は家族にも伝わった。

 夜、子どもがグズり出すと、広美夫人が連れだし、車の中で泣き止むのを待った。

 「負けたら大変で、パパが帰ると家が凍りついてました」

 自宅から見下ろせた当時の広島市民球場。ナイター証明の灯りが消えるのが怖かった。

 勝った日は大勢の人を自宅へ集めて快哉を叫び、しこたま飲む。

 シーズンオフも自分の好きなことをした。

 「それがエースである夫の仕事」と理解はしても、気の休まる暇はなかった。「野球はまったく分からなかった」が、夫の体の手入れのためにマッサージの施術まで習った。

 そんな生活を送るうちにこう思えてきた。

 「この人は仕事の面では尊敬できても、人としてどこか欠落しているところがあるんじゃないか」

 白血病と闘う北別府はついに、せん妄(意識精神障害)の状態にもなった。「鬼の形相」で、意味不明のことを口にするようになった。

 広美夫人は夫の姿にショックを受けた。

 「苦しみは極限状態にあったようです」

 白血球の数値が上がらない。絶望を感じ始めた北別府の心中を察した医師が、特別に面会を許可したほど容態は悪かった。再移植も頭をよぎったが、体力面を考慮すると現実的ではない。

 闘病開始から半年。6月も半ばに差し掛かっていた。

 体重は20キロ落ちて77キロになり、野球選手だった面影は薄れていた。

 そんなとき、目の前で見た医師のガッツポーズで、広美夫人は状況が好転したことを知った。

 昨年7月、北別府は63歳の誕生日を前に、退院することができた。

 「生涯忘れることのできない感慨深い誕生日」を家族と過ごし、笑顔も戻った。広美夫人は言う。

 「この病気は家族みんなで乗り越える、いい試練だったと思っています」

 本格的な治療が始まる直前、家族で写真を撮った。

 「もうこんな時間を過ごすことはできなくなるかもしれない」

 そんな思いが、家族みんなの頭をよぎったからだ。

 その1枚に写った家族は、みんなで前を、同じ方向を向いている。

 思いはひとつだった。

 かつてのように「人として欠落している」夫に、父にすべてをささげるのではない。家族みんなで、一緒に乗り越える。そう思えたからこそ、試練に打ち勝つことができた。

 そのきっかけは、7年前にあった。

 2014年8月20日。

 広島市北部の安佐北区や安佐南区の住宅地などで、大規模な土砂災害が発生した。

 災害関連死3人を含む死者77人を出した記録的集中豪雨。北別府は「何ができるか分からないけど、とにかく行こう」と広美夫人を伴い、家にあった家庭菜園用のシャベルやスコップを手に現場へ向かった。

 何かに取り憑かれたように、それから2カ月間、必死で汗を流した。土砂が流れ込んだ家々から泥を掻き出し、重い石をいくつも運び出した。狭い場所の泥は小さなスコップですくい取るしかない。何十回、何百回。気が遠くなるほどの作業を黙々と繰り返した。

 マスクをし、帽子姿の北別府に気づく人はほとんどいなかった。ボランティア登録もしなかった。

 「自分に置き換えたらどう思うか。それがすべてだった。とにかく人の手が必要だと感じた。どこから手をつけたらいいのかと。助けがなければ、きっと心が折れると思った」

 残暑の厳しいころ。最初の一週間はぶっ通しで、朝から日が暮れるまで働いたが、不思議に疲れなかった。「充実感だけ」が残った。

 「一緒にいて、心から楽しいと思えるようになったのは、このボランティアをしたころからです」

 広美夫人は表情を和らげてそう語る。

 「主人は野球と同じく私生活でも“針の穴を通す”ように細かいんです。大ざっぱな性格の私は馬の耳に念仏タイプで、お茶の温度も適当。もっと気がつく性格なら、主人もイライラせずにすんだのでしょうね」

 北別府は当時の心境をこう明かす。

 「家でも野球に集中していたかった。切り替えがヘタというか、切り替えるのが怖かった。エンジンが冷めて再始動するのに時間がかかることがあるのと一緒で、ずっと緊張を保っていたかった」

 すべてのわだかまりを解いたのが、災害ボランティア活動への参加だった。北別府という名前に関係なく地域の人たちが喜んでくれた。隣人の役に立てたことがうれしく新鮮でもあった。

 広美夫人は振り返る。

 「根本的に人が変わり、これで主人と一緒に前を向いていけると思いました」

 退院こそした北別府だが、その後も移植による苦しみは繰り返し襲ってきた。

 「息子の細胞が生着する過程で、私の身体で暴れているからとのことでした。何度かそういうことを繰り返して定着するようです」

 12月に医師から寛解を告げられたが、年末になり、移植した人にみられるGVHD(移植片対宿主病)という新たな拒絶反応が起こって再入院した。

 激しい嘔吐や下痢の症状が出たが、なんとか大晦日に退院。その後は通院で検査を続けている。そんな中で励みになったのは、同じように闘病生活を送る人々の姿だった。

 厳しい症状が出たタイミングで北斗晶さんからメッセージが届いた。

 「『どう?頑張ってる?』『また仕事一緒にするよ』とLINEが来た。ご自身、がんを克服されているので、その言葉は心強かった」

 病名は違うが、同じ白血病で苦しむ水泳の池江璃花子さんやアナウンサーの笠井信輔さんが、元気な姿を取り戻しているのも見た。

 「オレも治るかも」と気持ちを強く持つことができた。

 家には北別府が「命を救われたもの同士」という5歳になる猫の華ちゃんもいる。

 長女の優さんの第一子、孝祐君が生まれるときに引き取った。脊椎の病気で自力での排泄も難しく、獣医師に「先は長くない」と宣告されていた。

 それでも生き続け、少しずつだが体重が増え、歩けるようにもなってきた。

 しばらくの間は遊んでやれないが、小さな華ちゃんの生きる意思と生命力に力をもらっている。

 仕事仲間や野球関係者、ファンの人たち、友人とその家族、病院の先生。

 励ましてくれたすべての人たちに北別府は頭を下げる。そして家族にも。

 「息子にはコロナで動きが取りにくい中、血小板をもらって、今こうして生活できている。家内は大変だったろうし、苦労かけたなと。私以上に心配してくれて」

 感染症が拡大するにつれ、マスク不足を憂いていた広美夫人は大量の布マスクを自ら縫いだした。

 全国から寄せられた夫への激励に応えるため、また夫に対する治癒の祈りを込めて、必要とする人たちに配り、養護施設の子どもたちへも届けた。

 北別府は言う。

 「振り返ってみると、心に思っていても口にできない性分だったけど、心の底からありがたいと思ってます」

 澱のようにたまっていた家族への感謝の気持ちが、素直な言葉になってどっと出てきた。

 これから先、やりたいことは山ほどある。

 一番は実況中継による野球解説の仕事だ。

 3月19日、北別府は広島ホームテレビの情報番組「みみよりライブ5up!」にサプライズでスタジオ復帰し、視聴者を驚かせた。

 22日からはレギュラー出演を再開。ライブでの野球解説復活へ向けて準備は整いつつある。

 ネット向けの野球評論では、プロ野球人生をかけて今年に臨んでいる日本ハム・斎藤佑樹投手にエールを贈った。

 すると即座に関係者を通して本人が感激の言葉を伝えてきた。

 「私の発信が、苦しんでいる選手の役に立ったかもしれないと思うと、なんだか生きていることが素敵だと…」

 もうひとつは3年前から外部コーチをしている英数学館野球部の指導。

 1月下旬、リモート指導を行い、久しぶりにナインと“対面”したが、一日も早くグラウンドで教えたい。

 同時期にがんにかかり急逝した高校時代の大切な友人の墓参りにも行きたい。

 退院直後に涙声の広美夫人から訃報を聞いた。移植前まで頻繁に連絡を取り、互いに励まし合っていただけにショックは大きかった。

 ほかにもある。白血病の移植に関する啓蒙活動に今よりもっと力を注ぎたい。

 自身の場合は末梢血幹細胞の移植だった。現在、骨髄及び末梢血幹細胞のドナー登録者は増えてはいるが、実際に移植となると簡単ではないという。

 「血液の型が一致した人がいたとしても、仕事を何日も休めるかとなると、なかなか厳しいのが現実でしょう。そういう環境が整っていけば、救える命はもっと増えるはず」

 近年、提供ドナーへ助成を行う自治体が増加しているが、民間企業に理解が深まっているとは言いがたい。先々、整備が進み法制化されることを望んでいる。

 まだある。昨年、長男・大さんが結婚したが、自らの病気とコロナ禍で両家の挨拶は控えたまま。それも気になっている。

 そして何より楽しみにしているのが、孫の孝祐君とのキャッチボール。まだ1歳だから少し先になるか。

 開幕が近づくと今でも緊張する。

 北別府は開幕投手を9回も務めている文字通りの開幕男。

 初めてその大役を任されたのは1982年4月4日の中日戦だった。

 オープン戦終盤に、当時の古葉竹識監督から「分かってるだろ」とまずひと言あり、えっ?と返すと、「開幕じゃ」と言われた。

 経験したことのない重圧と緊張が襲ってきた。

 ところが、3日の開幕戦は雨天中止。翌日へのスライド登板を当時、広島市西区の三篠にあった合宿所で告げられた。

 「プレッシャーで、もうどうしていいか分からなくなった」

 集中力を維持しなければならない。緊張は倍に膨らんだ。

 それが開幕投手というものだった。

 一日ずれた開幕戦は小松辰雄との投げ合いを制して完封勝利。勢いに乗って勝ちまくり、その年20勝した。

 オフ、最多勝のタイトルを手土産に広美夫人と結婚した。そこから3年連続で開幕投手として勝利を挙げ、大投手への道を切り開いた。

 あれから39年。今年、本拠地マツダでの開幕マウンドに上るのは、大瀬良大地。北別府に並ぶ「開幕戦3連勝」を目指す新エースだ。

 昨年はコロナ禍で開幕戦が6月19日に延期されたが、闘病の峠を越えベッドの上で何とかその目で見ることができた。

 そこで好投する大瀬良に、「これは沢村賞を取れるかもしれないぞ」と感じていた。

 後輩投手の活躍に胸が躍り、少しだけ元気をもらった気がした。

 「今年は公式戦が順調に進むことを願ってます。いいシーズンにしてほしい」

 北別府にとっての本格復帰は実況中継の解説を務めることだ。

 それを果たして初めて全快したと言える。願いが叶えば、また一つ勝ち星が増える。

 家族でつかむ“214勝目”は、完全試合にもまさる大切な宝物になるはずだ。(敬称略/取材・文=宮田匡二)

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