【野球】生まれるのが50年早かった!投手分業制の先駆者・近藤貞雄さんに時代が追いついた

 生まれるのが50年早かったのか!生きていたら、プロ野球の監督を歴任した近藤貞雄さん(享年80歳)は、投手分業制が確立した今をどう思ったのだろう。

 DeNAの山崎康晃(28)が、8日の中日戦で2年ぶりの勝利投手となった。小さな大魔神と呼ばれた男も昨季は0勝3敗6セーブ。今季は開幕からストッパーではなく、セットアッパーとして登板している。

 通算169セーブを挙げている山崎だが、さすがに入団以来、ストッパーとして過酷な登板が続いてきたことによる“勤続疲労”はあるだろう。今後の復活を祈るばかりだが、いつから「先発-中継ぎ-抑え」という、投手分業制がスタートしたのだろうか。

 異論を唱える人はいるだろうが、日本球界に投手分業制を導入したのは、現役時代は中日や巨人でプレーし中日、大洋、日本ハムでは監督を務め、2006年に亡くなった近藤貞雄さんである。

 私は91年に近藤さんが指揮官だった日本ハムの担当記者になった。その当時、近藤さんから「日本で投手分業制を導入したのは、私が中日で投手コーチをやっていたときが最初」という話を聞いた。

 近藤さんが現役を引退しコーチに就任した時代は、もちろん先発完投どころか連投は当たり前。横浜や中日で監督を務めた権藤博さん(82)などは、ルーキーイヤーの61年にチーム試合数130の半分以上の69試合に登板し35勝19敗。現在でも、50年の2リーグ制施行以降ではシーズン歴代最高記録となる429回1/3を投げまくった。

 連投を重ねる姿に「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれ、翌年も30勝したが、登板過多で肩、ヒジを壊し65年には打者への転向を余儀なくされた。

 近藤さんは「(66年に)フロリダの教育リーグにいった際、現地のコーチから『投手の肩は消耗品』という話を聞いた。これを聞いて、日本流の投げ込みや登板過多は、確実に投手生命を縮めると思った」といったと思う。

 その後の指導者人生では、その信念を貫き続けたと思う。実際、私が担当した日本ハムでは、千葉・鴨川、沖縄・名護キャンプ中に、投手に対しは強制的な投げ込みを命じたことはなかった。

 また、時代に先駆けた、合理的な考え方の指導者だった。守備陣と攻撃陣を大きく入れ替える「アメリカンフットボール」のような戦術は「アメフト野球」とも呼ばれた。ベンチやコーチが出すサインも、野球では主流のブロックサインではなく、アメフトで用いられるフラッシュサインだった。

 おしゃれにも敏感な人だった。オフの趣味はゴルフではなくテニス。「首のしわがテレビ中継で映るのがイヤだ」との理由で、ユニホームの下には必ずタートルネックのアンダーシャツを着込んでいた。

 91年に日本ハムの監督を退任する際、当時の担当記者で送別会を催した。場所は東京・新大久保にあるなまず料理の名店「なまず屋 魚福」だったと記憶している。あの時も、近藤さんが熱く語っていた投手分業制を、今疑問に思う指導者はいない。(デイリースポーツ・今野良彦)

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