【野球】2軍で161本塁打!目のけがなければ元広島の大砲はどんな選手になっていたか
もし、目のけがさえなかったら、2軍で161本塁打を放った元広島の斉藤浩行(61)は、どんなホームランアーティストになっていたことだろうか。
阪神のドラフト1位・佐藤輝明が6日、甲子園で行われたソフトバンク戦で交流戦新人最多となる5本塁打目、今季15号となるソロアーチを放った。元巨人の長嶋茂雄、元大洋(現DeNA)の故桑田武に続く史上3人目となるルーキーイヤーでの本塁打王も夢ではなくなる量産ペースだ。
佐藤輝の姿に、広島カープ番記者時代に担当していたある選手の姿がよみがえる。斉藤浩行である。1981年のドラフト会議で2位指名を受けて入団。186センチ、87キロという外国人並みの体格を生かした、パワーあふれる打撃は“ポスト山本浩二”として期待された選手だった。確か、三篠寮でカレーライス10何杯を食べた男である。
1年目のシーズンは1軍で45試合に出場し4本塁打。翌年以降の飛躍が期待されたが、キャンプ中に思わぬアクシデントに見舞われた。内野手としてノックを受けていた際、イレギュラーした打球が右目を直撃。1・5あった視力が一時、0・1まで低下してしまったのだ。左目の視力は1・5のまま。左右のバランスを考慮しそれ以降は、薄く黄色がかったレンズの眼鏡をかけての出場を余儀なくされることになった。
影響は視力だけではなかった。デーゲームで行われるファームの試合ではほとんどは影響がなかったが、1軍の試合が行われるナイターの試合では「ボールがよくみえないことがあります」といっていた。
実力といってしまえば簡単だが、飛ばす力は群を抜いていた。デーゲームで行われるファームの試合では本塁打を量産した。82年から86年まで、ウエスタン・リーグで記録した本塁打は85本。87年のシーズンにはファームでは前人未到の100本塁打がみえていた。
当時、イースタン・リーグを含めても、2軍で100本塁打した選手はおらず、担当記者の間ではちょっとした話題になっていた。正確な日時は覚えていないが、100号到達した日、ウエスタン・リーグの担当者に「100号を打った斉藤選手を表彰しますか」と電話取材した記憶がある。
確か、そのときの返答は「斉藤君に伝えてください。ファームで100号打つより、上(1軍)で1本でも多く打てるように、練習に励んでください」だったと思う。
斉藤はその後、中日、日本ハムでプレーし、1軍では通算16本塁打に終わった。だが、ウエスタン、イースタンを合わせて2軍で161本塁打という成績を残した。ちなみに2位は巨人に在籍していた井上真二の125本塁打だから、この数字は圧巻である。
92年限りで現役を引退した斉藤の夫婦と二子玉川の中華料理店で会食したことがある。当時はマスターズリーグの選手として活躍する傍ら、陸送業の仕事をしていた。そのとき彼が寂しそうに言った「なんであの打球が、イレギュラーをしたんだろう」という言葉を、佐藤輝が本塁打を打つたびに思い出す。=敬称略=(デイリースポーツ・今野良彦)