“左腕殺しのマサオ”偲んで 28会が追悼集会 南海、巨人で活躍した山本雅夫さん
プロ野球28会(中畑清会長)は16日、南海、巨人、近鉄に在籍し、強打者として鳴らした山本雅夫さんの追悼コンペを出身地の兵庫県内ゴルフ場で行い、個性的で人気者だった故人を偲んだ。山本さんは巨人時代、「左腕殺しのマサオ」の異名を取り大活躍。今年3月18日に膵臓がんで亡くなった。68歳だった。
中畑会長はじめ梨田昌孝、田尾安志、真弓明信氏ら元監督、そして知人の大平サブローさん…参加した16人全員が、かつて山本さんが愛用していたクラブを手に、1番ホールの第1打を放った。
ボールは右や左へバラバラに飛んでいったが「偲ぶ心」は同じ。山本さんが大好きだったゴルフをすることで悼む気持ちを表した。
28会の代表幹事を務める岡義朗さんはコンペの目的をこう説明する。
「残念ながら大切な仲間を病気で失ってしまったけど、亡くなる間際までマサオは“ゴルフに行きたい”と言ってたんでね。49日が明けたらお別れゴルフで偲ぶ会をやって、みんなでお見送りをしようという話になったんですよ」
山本さんは5年前に膵臓がんを発症。1年半ほど前に再発してからは厳しい闘病生活が続いていたという。
岡さんが電話を入れても、心配をかけたくない様子で元気そうに振る舞っていたが、声の細さが気になっていた。それからは早かった。
梨田さんが見舞いに訪れ“マサオ、ゴルフに行くぞ!”と声を掛けると、「ピクっと反応したらしいんですよ」と岡さん。しかし、一緒にラウンドすることは叶わなかった。
兵庫県出身の山本さんは育英高校から、1971年度のドラフトで南海ホークスに6位入団。長い下積み生活を経て徐々に頭角を現し、4番打者にまで成長した。
84年から3年間在籍した巨人では主に代打で活躍。84年は・309、85年は・329の高打率で、勝負強さをファンに印象づけた。
応援歌にある「左腕殺しのマサオ」の歌詞に乗って、後楽園球場の「レフトスタンド」へ見事なアーチをかけるなど、その風貌も手伝い、仕事人の雰囲気を漂わせる職人肌の選手でもあった。
昭和28(1953)年度生まれで構成するプロ野球28会のメンバーで、現役引退して球界を離れても交友関係は続いていた。
岡さんは南海時代の同僚でもあり、当時、野村克也監督からかけられていた期待の大きさをよく覚えている。
「大阪球場の場外へ放り出すパワーを持っていたからね。野村さんが“飛ばす力は天下一品。何とか4番に育てたい”と言ってたほど」
しかし、先輩の門田博光を脅かすまでの実績は残せず、巨人へトレード移籍。マシン打撃なら圧倒的なパワーを示すが、変化球にモロいのが弱点だった。
それでも巨人入団後の「練習量と集中力」は中畑会長も認めるように凄まじく、短い期間だったが、貴重な働きを見せた。
グラウンドを離れれば、これまた豪快。そして玄人はだしの歌唱力。一方で繊細なところも。
「飲んで食って寝ない。関西弁でしゃべるし、見た目が怖い。でも話をすると優しい。気配りのできるタイプで、このギャップが彼の魅力だったね」
だから周りに人が集まってきたと岡さんは言う。
コンペのサブタイトルは“仕事人”だった山本さんらしさを出そうということで、「俺が雅夫や 追悼ゴルフ大会」とした。
プレー後は「偲ぶ会」に移り、黙祷と献杯後、参加者がそれぞれ1分間、山本さんの武勇伝など思い出話を語り、笑いと涙を誘っていた。
山本さんをこよなく愛し、つき合いの深い人だけが集まった追悼コンペは時節柄、細心の注意を払う必要からごく小規模なものになった。だが、今回の集会で28会として再確認したことがある。それは今後の活動だ。
「我々も来年で70歳。これを機会に心をひとつにして、より一層、野球界に貢献していきたい。歳は取ったけど、健康を大切にして何かやろうと、みんなで話し合ってます」
プロ球界最古の親睦団体。まだ活発な活動は控えているが、28会は体力の続く限り、野球界の発展に力を尽くしていく。