【スポーツ】友綱親方70歳退職 駄目押しの白鵬諭した厳しさと温かさ「子供のことを考えなさい」57年角界人生を全う
大相撲の友綱親方(元関脇魁輝)=本名・西野政章=が12日に70歳の誕生日を迎え、再雇用の期間を満了し日本相撲協会を退職した。青森県天間林村(現七戸町)出身。中学生で上京し、13歳だった1965年秋場所で初土俵を踏み、57年。電話取材に応じた親方は「ずっと周りに人がいたから正直、さみしいね。この社会だけで生きてきたから、まだ気持ちの整理がつかない。あっという間だった」としみじみと話した。
記者が印象に残るのが横綱白鵬(現間垣親方)への対応だ。度重なる駄目押しが横綱審議委員会(横審)などから批判された当時の白鵬だったが、どこ吹く風。そして2016年春場所、駄目押しが原因で土俵下にいた当時の井筒審判長(元関脇逆鉾)が大けがをしてしまう。
翌夏場所も宝富士、正代、魁聖が“えじき”。6日目の朝だった。当時、審判部副部長の友綱親方が白鵬の宮城野部屋へと動いた。
「彼の中で理解が足りていなかった部分があった。自分のことしか考えていなかった」と親方は感じた。そこで、「子供が学校に行って『お前のお父さんは』って言われる。自分の家族、子供のことを考えてやりなさい」と諭した。
頭ごなしに怒るのではなく、冷静に2人きりでじっくり膝を突き合わせ話した。そこから白鵬は駄目押しをしなくなった。
相撲界で13歳から育てられ、角界の流儀は親方の身に染みていた。横綱のプライドを考え、公の場ではなく、周囲の目がない部屋で話した。そして、取組後のまだ興奮が冷めていない夜ではなく、朝の時間帯を選んだ。
「この社会で生きていくことの知恵は必要だろうし、人の上に立つようになったら、そういうことを覚えてほしいし身につけてほしい。相撲部屋で子供のころから稽古も食事も私生活もすべて過ごしてきた。番付なんてみんなが上がるもんじゃない。それよりも人を育てるのが大事」。いずれ指導者になる白鵬に、「知恵」を授ける意味もあった。
指導は厳しいが、常に筋は一本通っていた。65歳の定年前には審判部副部長として立ち合いの手付きの厳格化に尽力。立ち合いを合わせない力士には土俵下から、鬼の形相で怒鳴りつける親方は土俵を引き締めた。
友綱部屋で育てられ、友綱部屋の師匠となり、最後は大島親方から友綱親方に戻り、角界人生を全うした。
故郷を離れ入門間もない13歳の新弟子時を今も鮮明に思い出す。「こう見えて周りの人に面倒を見てもらった。いじめられたりもなかった」と周囲に恵まれた。巡業では巡業部長だった元横綱吉葉山の宮城野親方(当時)に付き、相撲界のいろはを学んでいった。
8年かかって73年秋場所で新十両。「欲がなかったから。関取になれるとも思ってなかった」と振り返る。しかし「田舎の人は十両に上がったら幕内じゃないとテレビに映らないとか、幕内に上がったら、幕内の早い時間じゃなく遅い時間に取ってくれ、と言われて」と番付を上がった。
敢闘賞1度と、3個の金星(北の湖、2代目若乃花、隆の里)を獲得して幕内在位は66場所。87年春場所限りで引退した。
89年5月に友綱部屋を継承。「プレッシャーはあった」と名門部屋の師匠として気負いもあった。周囲に支えられ尽力。そして自らの手でスカウトした大関魁皇らを育てた。
「ホッとする部分があった。ここまでできたというのがあったから」。魁皇が大関になり5度優勝。師匠としても男にしてくれた。
親方として協会理事を通算4期。審判部長などを歴任し、騒動に揺れる協会内で、らつ腕を振るった。2010年の横綱朝青龍の暴行事件では調査委員会委員長として出国禁止など、厳しい措置を取った。
昭和の相撲界とは違い、今は鉄拳禁止はもちろん、指導の方法も難しくなった。
親方は言う。「この子のためと考えることが大事。自分のためと考えると言葉が出てこない。この子のためと思ったら一人ずつ、いろんな言葉を使ってあげられる。みんなが関取になれるわけじゃない。一つでも二つでも覚えてもらえれば。これからの親方衆は身を粉にして、自分を犠牲にして考えていくようにならないと」。厳しくも温かい、昭和の頑固一徹な親方だった。(デイリースポーツ・荒木 司)