【スポーツ】脱走、帰化そして角界のレジェンドへ モンゴル出身力士の先駆者大島親方の思い

 元旭天鵬の大島親方
優勝を喜ぶ旭天鵬
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現役時代も、親方としても、常にモンゴル出身力士の先頭を走ってきた。

「モンゴルから日本に来た最初の人になれたことが、逆にありがたいな、と思っていますよ。たまたまタイミングよくスカウトされたものだから、運がよかったのかもね」

元関脇旭天鵬の大島親方はこう言って、人懐っこい笑みを浮かべた。

本名太田勝、モンゴル名ニャムジャブ・ツェベクニャムの大島親方は、9月25日が千秋楽だった秋場所中に48歳を迎えた。その相撲人生はモンゴル出身力士の歴史そのものであり、ひいては両国交流の発展を映す鏡のようなものだろう。

日本とモンゴルは1972年2月24日に外交関係を樹立し、今年が50周年の節目の年に当たる。両国の交流を深める上で重要な役割を担ってきたものは数多くあるが、中でも大相撲で活躍するモンゴル出身力士たちが、両国民の心の距離を一気に縮めたことは疑う余地がない。

大島親方は外交関係樹立から2年後の1974年9月13日に、モンゴルのナライハ(現ウランバートル市ナライハ区)で生まれた。後の元小結旭鷲山ら5人の仲間とともに日本の土を踏んだのは、17歳だった92年2月22日。当時の大島部屋(師匠は先々代大島親方、元大関旭國)に入門するためだった。

来日直前の同年2月9日。ウランバートルで、日本に行って相撲を取る若者を選ぶ選考会が行われた。

前年の91年にモンゴル友好議員連盟の上田卓三衆院議員(社会党=当時、元旭國関西後援会会長)が同国を訪問した際、伝統的な格闘技「モンゴル相撲」の協会関係者から日本での興行開催について相談を受けた。これが端緒となって日本の大相撲に人材を派遣する話が進み、選考会の開催が決まったのだった。

身長190センチと体格に恵まれていた大島親方は父ニャムジャブさんの強い勧めを受け入れて参加。予選を含めた参加者は170人で、最終的に大島親方と旭鷲山、旭嵐山(後に旭天山)、旭鷹、旭獅子、旭雪山の6人が選ばれた。

背景には91年のモンゴル民主化があった。それまでは社会主義国であり、異なる体制間では気軽に日本とモンゴルを行き来することはできなかった。

「今考えると、よくあんなことができたと思うよ。異国の未成年を6人も日本に連れていったわけだからね。パスポートも異例の早さで作ってくれた。(先々代大島)親方もよくモンゴルに行ったよね。何にも知らない国なのに、テレビでモンゴル相撲を見て、『足腰が強そうだ』『顔が日本人に似ている』という、その2つだけで行ったらしい。本当にすごい親方だと思う」

来日した大島親方は、旭天鵬というしこ名をもらった。

長身ですらっとした体形が大横綱大鵬に似ているからというのが理由だった。最初は親方の旭國の旭に大鵬をつけて旭大鵬という案も出たが、それはやり過ぎだろうということで、大の字に横一本を足して旭天鵬になった。選考会の時から「一目惚れ」だったという親方の大きな期待が込められていた。

初土俵は来日から間もない3月の春場所。大島親方の入門時から現在までを知る大島部屋所属の幕内格行司、木村寿之介さんは6人のモンゴル青年が大阪の宿舎にやってきた日のことを、今でもよく覚えている。

「最初から驚きでしたね。大阪は冬で寒い時期だったのですが、彼らは極寒の地から来ているから、暑く感じたのでしょうね。パンツ一丁で布団もかけずに寝ている。『暑い、暑い』と言ってね。僕らは布団にくるまっているのに。あれは衝撃でした」

基礎体力の高さにも目を奪われた。

「全員が差し入れのビール3ケースとか米40キロを両肩に担いで普通に階段を上がっていく。日本の若い子はビール1ケースとか米10キロでヒーヒーいっているのに。まるっきり体の作りが違うと思いましたね」

彼らが土俵の上で力を示すのに、時間はかからなかった。

一方で、全く文化が違う異国への戸惑いは大きかった。東京には高層ビルが立ち並び、街は夜になってもキラキラと明るい。どこへいっても舗装されている道路事情にも驚いた。

「モンゴルにいる時、日本は水も空気も何でも作っちゃう、と聞いていた。だから喫茶店に入って、水が出てきただけでお金を払おうとして驚かれたこともある」

特殊社会の相撲界に順応するのはもっと難しかった。

日本語を覚えるために「モンゴル語を使ったら罰金1000円」のルールを設けた。ただ徴収するのではなく、罰金がたまったら6人でおいしいものを食べにいこうと、おかみさんらも懸命に支えてくれた。

厳しい稽古に耐え、付け人の仕事も必死にこなしたが、次第に将来への不安が大きくなっていく。そこに初体験の日本の夏の酷暑が、追い打ちをかけた。来日から半年が過ぎた8月19日、旭嵐山を除く大島親方、旭鷲山、旭鷹、旭雪山、旭獅子の5人は部屋を脱走した。

逃げ込んだ先は東京・渋谷のモンゴル大使館。すぐに駆け付けてきた先々代大島親方から部屋に戻るように説得を受け、旭鷲山と旭鷹はこれを聞き入れたが、大島親方ら3人は首を縦に振らなかった。

「あの頃はやっぱり子供だったな。『モンゴルに帰りたい』と一度マイナスの考えになると、止めるのは難しかった」と大島親方。モンゴル大使館が用意してくれたモンゴル料理を口にし、さらに郷愁にかられたという。

「いただいたモンゴル料理のおいしかったこと。小籠包、ゆでた羊の肉という定番料理だったけど、なにしろ半年ぶりに食べたモンゴル料理だったからね。本当においしかったな」

相撲に別れを告げ、母国に戻った大島親方だったが、脱走から2カ月後の10月にモンゴルにやってきた先々代大島親方に再度説得されると、再来日を決意した。

理由はモンゴルに戻った時の両親の寂しそうな表情が胸に突き刺さっていたからだった。

「その時、ウランバートルで食事会が催された。親方と一緒にシュウ(旭鷲山)やテンザン(旭嵐山)も帰国していて、2人は日本に残ったから誇らしげだった。2人の両親も笑顔で話していたけど、うちの両親は暗い表情で黙っているだけだった。これは自分が逃げ帰ったからだなと思った。だから『もう一回頑張ってみます』と言った」

退路を断つ形で再来日した大島親方は一心不乱に稽古に打ち込んだ。

当時既に体重が120キロ台まで増えており、努力すればしただけ結果がついてきた。

その年の九州場所から6場所連続で勝ち越し、93年九州場所は三段目上位まで番付を上げた。十両昇進を果たしたのは来日から4年目の21歳で迎えた96年初場所。西幕下9枚目で7戦全勝とし、ついに念願の関取の座をつかみ取った。

この頃には体重が150キロになり、右四つで寄っていく自分の形ができ上がった。

さらに幕内昇進はその2年後の98年初場所。2002年初場所で新三役となる小結に上がり、03年名古屋場所では関脇まで番付を上げた。

大島親方が十両、幕内と昇進していく上で発憤材料となったのが、ともに来日した6人の中のひとり、旭鷲山だった。

この終生のライバルには十両に上がるのも、幕内に上がるのも、小結昇進も常に先を越されたが、旭鷲山が小結止まりだったので、関脇昇進は大島親方が早かった。

「あの頃のオレはいつもモンゴルで2番目といわれていた。いつも1番はシュウだった。悔しい気持ちでシュウの背中を追いかけているうちに関取になり、幕内に上がれた。シュウがいなかったら、オレは関取になっていなかっただろうね」

大島親方が幕内上位に定着したのは2000年以降で、来日した92年から10年近い月日が過ぎていた。この頃になるとモンゴルの後輩たちが次々と相撲界へ飛び込んできた。

99年の朝青龍をはじめ、00年には朝赤龍(後関脇、現高砂親方)、01年には白鵬(後横綱、現宮城野親方)、鶴竜(後横綱、現鶴竜親方)、安馬(後横綱日馬富士、引退)が入門。母国では大相撲人気が高まり、朝青龍が03年春場所でモンゴル人初の横綱に昇進すると、それは頂点に達した。

多い時にはウランバートルの6つのテレビ局のうち4局がライブで大相撲中継を行い、中継が始まる現地時間の夕方4時になると、テレビを見るため街から人影が消えたといわれたほどだった。

「オレやシュウが逃げて帰って、日本にモンゴル人が誰もいなかったら、果たしてこれだけモンゴルの人が相撲界に入っていたのかなと思うことはあるけど、オレ自身が何かしたわけじゃない。でも、結果がすべていい方になったと思えるのは、本当にうれしいよね」

モンゴルで大相撲人気が沸騰している中、大島親方は人生の重大決断をする。

いつかはやってくる引退後を考えた時、親方として大島部屋を継ぎ、後進の指導に当たりたいという気持ちが芽生えた。

相撲協会は親方になれる条件のひとつに日本国籍を持っている者という一項を定めている。熟考の末、04年に日本への帰化申請を行い、05年に認められた。日本人としての名前は太田勝。先々代親方の本名、太田武雄の太田としこ名の旭天鵬勝の勝からつけた。

この帰化にはモンゴル国内で反発の声も上がった。

ちょうどインターネットが普及し始めた時期。掲示板には「旭天鵬は国を捨てた」など辛辣なメッセージも書き込まれたが、大島親方はじっと耐えた。

夏場に帰国した際、ウランバートルの空港で母国のメディアに囲まれた時は「帰化はしても書類上のことで、モンゴル人としての気持ちは何も変わらない」という思いをしっかりと自分の言葉で伝え、誤解を解く努力をした。そのかいもあって、いつしか反発の声は小さくなっていった。

相撲人生のハイライトは幕内上位で戦っていた12年に突然訪れた。

3月いっぱいで先々代大島親方が定年退職となり、同じ伊勢ケ浜一門の友綱部屋(師匠は元関脇魁輝)へ移籍。友綱部屋所属に変わって1場所目となる夏場所で大相撲の歴史に残る快挙を達成した。

6日目から10連勝した大島親方は12勝3敗で栃煌山とトップに並び、史上初の平幕同士による優勝決定戦が実現。運命を分ける大一番は立ち合い狙った左上手は引けなかったが、冷静に左からはたきこんだ。37歳8カ月は史上最年長初優勝だった。

優勝パレードでは大島親方を“アニキ”と慕う横綱白鵬が自ら名乗り出て、旗手を務めた。

「今でも勝った瞬間の事は覚えているよ。頭が真っ白になり、気がついたら涙をポロポロこぼしていたね。やっぱりあの優勝がオレの相撲人生で一番だったと思うよ。楽しいこともつらいこともいろいろあったけど、あえて選ぶならあの優勝だよね」

この優勝はその後の相撲人生に大きな影響を及ぼした。

引退“適齢期”に差し掛かっていた大島親方は「優勝したのにすぐにやめられない」と奮起し、年齢というハードルを越えて活躍しているスキージャンプの葛西紀明、サッカーの三浦知良のような角界版“レジェンド”への道を踏み出すことになる。

支えになったのは、この頃から上位にランクインするようになった幕内出場回数などの各記録だった。

きっかけは優勝した場所で大横綱貴乃花の通算勝星794勝に追いつき追い越したことだった。それからは支度部屋に持ち込むティッシュボックスに通算勝星数や幕内出場回数が記された表を貼り、出番前に表を見ることを発憤材料にした。

14年春場所終了時には通算出場回数、通算勝星数、幕内出場回数、幕内在位場所数、幕内勝星数の5つの記録すべてがトップ10入りを果たした。

「記録以外だと、妻(恵子さん)の言葉が大きかった。もう引退かなという時になると『もう少しで子供と手をつないで国技館から帰れるようになる』とか『2番目は男の子だからもう少し頑張れば抱っこして土俵入りができる』とか励まされた。妻の言葉がなかったらもっと早く引退していただろうね」

角界の“レジェンド”と呼ばれるようになった大島親方は40歳10カ月まで幕内で現役を続け、十両陥落が確実になった15年7月場所後に引退した。その直前の夏場所5日目には幕内出場回数が1445回となり、魁皇(元大関、現浅香山親方)の記録を抜いて史上1位となった。

「もう一回優勝なんてできないし、せっかく20年近くやっているから、そのいろんな記録のところに自分の名前をどれだけ残せるかっていうのが、目標に変わった。一番は幕内通算出場。同じ一門の魁皇さんが1位で、けがと戦いながら記録作っていくのを知っていたから、この記録は抜きたいなと思った。そして、気づいたら41(歳)近くまでいっちゃった」

引退して年寄大島を襲名し、友綱部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たった。

その後、先々代友綱親方(元関脇魁輝)の定年退職に伴い、友綱部屋を継いでモンゴル出身初の師匠となり、今年、再度名跡交換を行って大島親方に戻った。現在は、古巣の大島部屋再興を目指して稽古場に立っている。

入門時から大島親方を知る幕内格行司の木村寿之介さんは、モンゴルから来たパイオニアの魅力を「ある意味で人たらしですよね」と表現する。

「いろいろな場面での彼の対応を見ていると、感心することばかりです。それも戦略じゃなくて、普通にやっている。相撲界でいろいろ問題があった時期は巡業でもお客さんの入りが悪かったのですが、その時、率先してたくさんの人に自分から寄っていって握手をしたりサインをしたりしていた。それを他の力士もまねるようになって、徐々に巡業にお客さんが入るようになった、ということもありましたね」

その器の大きさ、懐の深さでみんなに愛されてきた。

母国を思う気持ちもずっと変わらない。

09年8月。重度の肝臓病を患い、来日して日本で治療を受けていた父・ニャムジャブさんの「人生の最後はモンゴルで過ごしたい」と希望をかなえるため、大島親方は車いすに乗せた父を伴ってモンゴルへ戻った。

その時、ウランバートル空港から自宅まで送ってくれたモンゴルの救急車の不十分な車内設備、台数の少なさに驚き、その後、関係者の協力を得て、合計4台の日本製救急車をモンゴルへ寄贈した。

「この30年を振り返ると、日本とモンゴルの交流にいくらかは貢献できたのかなとは思います。この間、テレビを見ていたら、ウランバートルで国交樹立50周年を祝うイベントを開催していた。たくさんの日本の国会議員さんがモンゴルに行っていて、国会議事堂前の広場にたくさんの人が集まっていて、すごいなと思った。その時、『ああ、よかったな』と思ってうれしくなった」

25日千秋楽の秋場所ではモンゴル出身の平幕玉鷲が37歳10カ月で優勝を果たし、自身の最年長優勝記録を更新した。「記録は抜いてくれていいよ。たいしたものだ」。後輩の快挙を我がことのように喜んだ。

大島親方が相撲協会を定年退職となる65歳まであと17年。これからもモンゴル出身初の日本人親方として、大相撲の歴史に新たなページを刻んでいくことだろう。(デイリースポーツ・松本一之)

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