【野球】「3・11」に記す佐々木朗希の名前、栗山監督が信じるスポーツの「力」と「メッセージ」
大谷翔平か、ダルビッシュ有か-。
宮崎で行われた2月の侍ジャパン強化合宿。1次ラウンド・東京プールの登板順を考えた時、栗山英樹監督を担当する記者間でも意見が割れた。世界を代表する二刀流の勢いか、チームの精神的支柱となったベテランか。正解はないが、答えはある。最後は結果的に、2人の調整登板を逆算すれば、隠すことなく明らかにはなった。
悩み、皆で議論した1、2戦目だが、3戦目は誰も疑うことはなかった。「3・11」。栗山監督の中では就任当初から、「佐々木朗希」の名前があったのでは、とさえ思ってしまう。「おこがましいかもしれないが…」。必ずこう前置きした上で夢と理想を語る。
「とにかくね、日本の状況は今でも、いろんな意味で苦しいでいる方がたくさんいる。少しでも元気や勇気をお届けできるように。そして子どもたちに夢を持ってもらえるように。全力で戦う中で頑張ったらいいということではなくて、必ずや世界一になってみなさんに喜んでもらう。そんな野球をぜひやっていきたいと思います」
人生は物語であり、野球はエンターテインメントでもある。指揮官としても求めてきたのは、勝つだけではなく、その過程で人々に届けることができるメッセージなのだろう。
「元々、人はみんな一つだったわけでしょ。俺はそういった形を示すことも、スポーツの力だと思っている。みんなが手をつなぐという意味。いろんなところでみんながね、つながれるものはつながっていくんだという。そういうものは、すごく大事だと思った」
12年前の2011年3月11日、佐々木朗は東日本大震災に遭った。当時9歳。岩手県の陸前高田市で暮らしていたが津波で実家が流され、最愛の父・功太さんと祖父母がこの世を去った。幼き日に刻まれた悲しい記憶だ。
同県の大船渡市に移住することになった。大船渡高では最速163キロをマークしたことなどから「令和の怪物」と形容される投手にまで成長。昨季は完全試合を達成するなど、今や誰もがその右腕に夢を見る。被災地の方々だけではなく、多くの人がその背中に希望を抱いている。
栗山監督は今大会初戦、「二刀流はチームを勝たせるためにあるんだ」と信じ続けた大谷を起用。第2戦は日本ハムの監督就任が決まった2011年のシーズンオフ、メジャー挑戦が決まっていたダルビッシュに「一生に一回だけでいい。メンバー表に一番勝ちやすい投手の名前を、ダルビッシュという名前を書きたいんだ」と願い続けた右腕に任せた。
さあ、第3戦。物語はどんな未来を描くのだろうか。(デイリースポーツ・田中政行)