【野球】報徳学園・大角健二監督 消防士志望から恩師の死に導かれた監督としての甲子園
第95回選抜高校野球大会は1日に閉幕した。山梨学院が県勢初の頂点に立ち、21年ぶりの優勝を目指した報徳学園は準優勝。東海王者の東邦、昨夏の覇者、仙台育英、神宮王者の大阪桐蔭らと2度のタイブレークを含む激闘の末、強豪校を次々と下した。
“逆転の報徳”を指揮したOBの大角健二監督(42)は、教え子が1試合ごとにたくましくなる姿に「こんな学年だったかと驚いている」と話していた。頂点には届かなかったが、監督冥利(みょうり)に尽きる大会だっただろう。
しかし、実は同監督は指導者の道を最初から希望したわけではなかった。大学卒業時に野球とは縁を切り、消防士を目指す予定だった。
“松坂世代”として4度甲子園に出場した捕手。華やかな道から一転、立命大では肘に2度メスを入れ、投手への返球もままならなくなった。キャプテンシーを評価した当時の松岡憲次監督から、主将を命じられても「プレーヤーでもないのにとプレッシャーを感じて。野球が嫌で嫌でしかたなかった」と振り返る。そんな大学4年の時に人生を決める出来事があった。
高校時代の野球部長だった竹村洋一さんが、02年10月にガンのために亡くなった。享年54。野球経験者ではなかった竹村さんだが、居残り練習も遠征先の素振りもいつも最後までつきあってくれた。親しみを込めて「タッケン」と呼んだ。故障で苦しんだ大学生活でも、ことあるごとに悩みを話した。穏やかな口調で、時に面白がるように「悩め悩め、自分で考えろ」と言うだけだったが、なぜか心が晴れた。
竹村さんの告別式の後、当時の永田裕治監督(現日大三島)から呼び止められた大角監督は、コーチとして母校に戻ることを打診される。永田監督にとっても竹村さんは恩師。二人三脚でその年のセンバツを制していた。「部を手伝ってほしい」という言葉に、最初に思った。「野球から逃れたいのに、また野球か」
しかし、永田監督は「竹村先生はもういない」と言った。「竹村先生は私の心の支えだった。あいた穴を少しでも埋められたらと思った」。コーチとして母校に戻り、通信制の大学で国語の教員免許を取得した。
永田監督は、大角監督に声をかけた理由について「こいつなら大丈夫という人柄。それだけだった」と言う。大学時代の苦節が糧になることも、見越していたのだろう。
大角監督は永田監督の下でコーチ、部長として研さんを積み、また支えた。17年に永田監督が勇退。36歳で後を引き継いだ。監督就任後、18年夏に8強入りした後は、甲子園に届かず苦しんだ。今大会が監督として2度目の聖地だった。
春夏通算3度優勝の名門。しかも名将の後を引き継いだ重圧はずっと変わらない。ただ、この春、胃がきりきりとするような戦いの中で、教え子たちは未知数の可能性を見せてくれた。恩師の死に導かれた指導者の道は、いばらの道だった。それでも、その道を堂々と歩いて行く。準優勝のメダルが、思いを強くしてくれた。(デイリースポーツ・船曳陽子)