【スポーツ】グリーンツダ本石会長“弟”小松さんの死から14年、悲劇の滝訪れ約束の世界王者育成誓う「俺が小松の夢を背負う」

ジムに掲げる小松さんの写真の前でガッツポーズの本石昌也会長
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 4月13日、ボクシング元東洋太平洋フライ級王者の小松則幸さんが29歳の若さで事故死してから14年を迎えた。命日のこの日、兄弟のような絆で結ばれた大阪の名門グリーンツダジムの本石昌也会長(47)は悲しみの地となった大津市の「三の滝」を訪れ、供養。そして小松さんの実家で手を合わせ、天国の“弟”に長い時間、語りかけた。

 「小松、見守っていてくれよ、世界チャンピオンを必ず作るからな。俺たちの夢をかなえるから」。

 偶然の出会いから4年2カ月、4歳下の小松さんと毎日一緒に過ごし、本当の兄弟のようになった。まさに一心同体、「俺ら2人なら大丈夫」と常に言い合って笑った。しかし、濃密な日々は突然、終わりを告げた。

 悲しみを乗り越え、ボクシング経験の一切ない素人は“弟”の遺志を継いだ。なぜ名門ジム会長へと転身したのか-。それは運命に導かれた道があった。

 会長はマイク・タイソンに憧れた大のボクシング好き少年だった。すり切れるまでボクシング雑誌を読み込み、高校では1人で試合を観戦した。ただ「リングに上がる勇気はなかった」と、自身が闘いに向かないこともよく分かっていた。

 金融関係の仕事に就職してもボクシング熱は冷めず。そんな20代の頃、会長のハートをくぎ付けにしたのが小松さんだった。「とにかく華があった。スター性というか、世界王者に絶対になると思った」と衝撃だった。

 28歳時の2005年。試合後でまだ流血跡が痛々しい小松さんを大阪・寝屋川市で見かけた。「小松や」と思った瞬間、走っていた。「ファンなんです」といかに小松さんが好きかを熱弁。そして連絡先を聞き出し食事に誘った。意気投合しすぐに互いに不可欠な関係へと深まった。

 のちにジムを再建した手腕はこの頃から発揮され小松さんの応援団300人を動員するようになる。同年11月には東洋太平洋王座奪還に成功。個人マネジャーとして信頼をつかむ。06年にはエディタウンゼントからグリーンツダに移籍。07年には後楽園ホールの日本王座挑戦で初めてセコンドに付いた。

 その頃、グリーンツダの経営不安が露呈していく。高山勝成へのファイトマネー未払い問題が起こり、多額の負債が発覚。選手もスタッフもジムを離れていき、所属選手の試合だけ何とか継続している状況だった。チーフトレーナーが不在となった小松さんは何と、本石会長にトレーナーを依頼。「無理や」と断ったが懇願され、結局引き受けた。

 31歳、素人がミットの持ち方を一から勉強。「大変だった。あちこちけがして痛めて。頑張りたいけど自信はなかったし結果が出なかった」と今思えば足を引っ張っていた。

 それでも、08年、自身がチーフトレーナーとして世界ランカーに勝利。「あれが最高だった」と自信をつかんだ。そして、ビッグチャンスが訪れる。

 09年5月13日に知名度抜群、亀田3兄弟の次男、亀田大毅(のちの世界2階級王者)戦が決定した。勝てば1度は負けている当時のWBC世界フライ級王者・内藤大助への挑戦権奪取という大一番だった。

 「亀田とやって、世界ランクも戻って、内藤とできると。それに全てをかけた。小松の意気込みはすごかった。彼の取り組む姿勢はがらっと変わった」と会長も生涯最高の仕上がりを援護した。

 2人の情熱が合わさり、すべてが順調だった日々は一転。試合1カ月前、09年4月13日が訪れてしまう。

 2人は同10日から精神修行も兼ねて京都市の寺で合宿を張っていた。座禅を組み、朝晩はトレーニング。同13日は知人に勧められ、朝練後に滋賀県大津市の滝へ向かった。「三の滝」と呼ばれ、不動明王が宿る別名「不動滝」にパワーをもらいにいった。

 「きれいな滝やな、気持ちいいな」と2人で話していた。しばらくして小松さんが「滝壺を見てきます」と言って一人で先に向かい、「気を付けてな」と伝えた。それが最後の会話になるとは思いもしなかった。

 「いつも一人でいなくなるようなやつだった」と会長は言う。だから戻ってこなくても「散策してるのかな」と心配しなかった。だが2時間も3時間も戻ってこない。辺りは暗くなってきた。

 今も鮮明にあの瞬間、瞬間が脳裏に刻まれている。「消防を呼んでレスキュー隊も一緒に探した。どこにもいなくて。水の中とちゃうかと、レスキュー隊が潜ったら、底に沈んでいた」。

 足を誤って滑らせて滝壺に転落したと見られ、溺死だった。「引き上げられた時は体が固まっている。うそやろ、と思って。彼の手を握ったら冷たかった。一言目に言ったのは『小松なんでやねん、試合どうすんねん』と。そこから泣き崩れて。あれはほんまつらかった。突然、衝撃すぎて。泣き崩れるとか、そんなレベルじゃない。起き上がれなかった。その間、小松は救急車で病院に運ばれて。僕は小松のお母さんにも電話しないとダメで。つらかった。大変なことになってしまったというのと、僕にとっては兄弟以上の存在やった」。

 1カ月間、ただ泣き続けた。「自分を責めて。俺みたいな人間がおったから小松がああなった。俺みたいな人間が関わったらあかんかったんやと。すごい自分を責めました」。小松さんのいないボクシングに関わる気力も資格もなかった。

 小松さんの家族から告別式のあいさつを頼まれた時、「僕がいてこんなんになって、僕なんかダメです。僕は守れなかった人間ですよ」と固辞した。

 そんな会長に小松さんの母は言った。「家ではいつも本石さんの話ばかり。本石さんが言ってくれたら息子も喜びます」。その言葉で引き受けた。

 参列者の前で小松さんとの思い出を語った。すると、「勝手に言葉が出た」と言う。

 「小松ありがとう。小松の世界チャンピオンになる夢はかなえることができなかったけど、俺が小松の代わりにこの世界で生きていく。俺は小松を背負ってボクシングの世界でやるから、一緒に世界チャンピオンを作ろう」。考えていたこととは正反対、遺志を受け継ぐ決意表明だった。

 「なぜかその言葉が出てきた。『俺たちのコンビに終わりはないよ。俺がこの世界で生きていくから。一緒に世界チャンピオンを作ろう』と。今でも不思議。小松の魂が入ったのかどうか分からないけど、僕はそうだと思っている。考えてもいなかった。その瞬間に小松の代わりにこの世界に入って、小松を背負って一緒に世界チャンピオンをつくるという志に変わった」。

 翌日には会社に退職を届け出て、ジムには以前から頼まれていたマネジャーを引き受けることを伝えた。だが、しばらくしてジムの経営陣が破綻。素人マネジャーはマイナスからのスタートだった。

 「結果、5年間、無給でした。貯金を切り崩しながら無給のボランティア。小松がいなくなってマネジャーになったけど、この業界に知り合いがゼロ。試合を組むとか興行を打つとか誰からも相手にされなかった。ほとんどが現役選手をやって、そこからジムを運営している人たち。本石がマネジャーになった、会長になった、誰やねんと」。歯を食いしばって耐えた5年。ようやく周囲も受け入れてくれた。

 14年4月、ボクシングの素人が浪速のロッキー・赤井英和、元世界2階級王者・井岡弘樹、元WBA世界ライトフライ級王者・山口圭司、ミニマム級元世界主要4団体王者・高山勝成らを輩出した名門グリーンツダの第4代会長に就任した。

 会長初興行は小松さんの命日である同年4月13日。メインは小松さんの前ジムからの後輩で小松さんのガウンをまとい入場した川口裕(28)が日本バンタム級王座戦に臨んだ。結果はメインもセミファイナルも完敗。所属ジムボクサーは3勝6敗と負け越した。

 「ほんまにボロボロやった。一発目の興行が小松の命日。これが運命のハッピーなスタートラインと思ったら、どん底。けれどそれが僕のスタートラインだった。これが現状の力というのを小松が教えてくれた。あの日から変わった。これが俺の力なんやと思った」と、痛感した。

 1年目は負け続けた。「どうしたら勝てるのか」と苦悩の日々だったが、ジムは順調だった。昼間に健康目的で体を動かすフィットネス会員が約130人にまで増え、運営を好転させた。

 経営手腕は金融会社仕込みで自身の得意分野。「ジムを運営するのが会長としての仕事じゃないかと。それをめっちゃ頑張っていた」と当時を振り返る。その頃、試合直前で翌日に計量を控えた選手が「最後、会長にミットを持ってもらって、それで仕上げにします」と頼んできた。

 会長は「フィットネスの人たちが待っているから、この人たちが終わったら受けるからちょっと待ってくれ」と選手に伝えた。しばらくして選手は「会長、しんどいんで帰ります、ミットなしで」と帰って行った。

 結果、選手は負けて大泣き。その姿を見て「あれって思った。俺って世界チャンピオンを作るためにボクシングジムの会長になったのに、フィットネスで一生懸命になっている。俺こんなんでいいのかと疑問をもった。選手が負けて泣いたのは俺がミットを持たへんかったから。小松は『フィットネスの会員をたくさん集めてくださいね』とは絶対に言わへん。こんな気持ちでやっていて世界チャンピオンなんて一生作れない」と気付いた。

 そこから1カ月以内にフィットネスの会員は全員、辞めてもらった。14年の2月、プロのジム生を集めて宣言。「これからはプロ専門でやる。おれは世界チャンピオンを作る」。グリーンツダはプロ専門に変ぼうした。

 収入は5分の1になったが、スポンサーが本石会長の心意気に共感し、増えた。選手も目の色が変わり、成績は急上昇。15年4月、川口裕が1年前の雪辱を果たし東洋太平洋王座を奪取し、会長に初のベルトをもたらした。会長2年目は初の新人王も取り、全国3位の勝率を残した。

 「1年目は選手のせいにしていた。練習が足りへん、根性が足りへんと。そうじゃない、僕があかんかった。何を変えたというと、僕を変えた」。素人会長が選手と一緒にもがいて成長した。

 川口に続き、日本ウエルター級王者・矢田良太、日本スーパーフライ級王者・奥本貴之を輩出(3人とも引退)。3人が礎を築いたジムに今は日本スーパーバンタム級2位・下町俊貴、日本フェザー級7位・前田稔輝、日本バンタム級6位・那須亮祐が育ち、次のタイトルを狙う。

 「川口で東洋をとって、そのあとに矢田、奥本。それぞれ防衛もした。その上に行こうと思ったらはね返された。下町、那須、前田、その3人がその上を行く。今のメンバーは日本、東洋を取ってその上に行けると僕は思っている。そういう手応えを感じている。うちは新人王から育ててチャンピオンのステージに上がっていく。今は一番、世界に行けるメンバーと思う。僕の中で世界チャンピオンはあと2年。今のメンバーであと2年と確信している」と、一歩ずつ夢は近づく。

 命日だけではなく、毎月欠かさず、会長は小松さんの実家を訪れる。「こんなボクサーがおるんや」、「こいつはチャンピオンになる」と“弟”には何でも報告する。

 「彼と出会っていろんなことを教えてもらった。一番印象に残っているのは『ぶれない心』。小松はリング上でもぶれないし、練習中でも黙々と休むことなくやっていた。僕の中では常に頭にある。つらい時、うまくいかない時、絶対にぶれたらあかんと心に刻んでいる」。小松さんの魂を背負い、16日に行う自主興行「CRASH BOXING」(エディオンアリーナ大阪第二競技場)も28回目。3本柱の一角、那須がメインに登場する。(デイリースポーツ・荒木司)

 ◇小松則幸(こまつ・のりゆき)1979年4月21日、大阪府寝屋川市出身。大阪府立枚方西高等学校卒業。1997年、エディタウンゼントジムでプロデビュー。2002年、05年に東洋太平洋フライ級王座を奪取。06年グリーンツダに移籍。24勝(10KO)6分け6敗。オーソドックス。09年4月13日、死去。

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