【野球】掛布雅之氏が今も1・17に神戸で炊き出しを続ける理由 阪神淡路大震災で得た教訓「復興の仕方って間違えてほしくない」
1月17日に阪神・淡路大震災から29年を迎える。阪神の4番として活躍し、2軍監督なども歴任した掛布雅之氏がこのほど、デイリースポーツ本社を訪れ、1995年の思いを語った。1日には能登半島を襲った地震で大きな被害が明らかになる中、今も続ける“炊き出し”で神戸の復興を目に焼き付けてきたミスタータイガースが、赤裸々に震災当時を語り、復興のあり方を訴えた。
◇ ◇
1月1日、掛布雅之氏が大阪市内で感じた揺れは29年前を思い起こさせた。能登半島を襲った最大震度7の大地震。夫人に「おい、揺れてるぞって。これは大きいぞって」。目に飛び込んでくる被害状況は、ミスタータイガースの記憶を鮮明に呼び起こしたという。
「ウチの息子もそうなんだけど、あの震災を経験して以降、揺れに敏感になってね。道路が波を打つような映像があったでしょ。本当に29年前ですか、1月17日もあんな感じだったんです」
1995年1月17日、午前5時46分、大阪市内のマンションで掛布氏は被災した。「トラックが自宅に突っ込んだような音」で目が覚めた直後、大きな揺れを感じた。別室にいた夫人と息子の元へ行こうとしたが「とてもじゃないけど、大きな揺れでたどりつけなかった」という。震度6(当時)の揺れは、立っていることもできなかったほど。幸いにも自宅などに影響はなかったが、目に飛び込んでくる被害状況は想像を絶していた。
「戦争を経験したわけではないけど、神戸の街は本当に戦争で焼け野原になったみたいだった」と掛布氏。西宮市に在住していた知人は、がれきの中から「助けてくれ、助けてくれという声が聞こえてくる」という現実を訴えてきたという。表情から笑みが消えた子どもたち。「今、自分が何かできることはないか」-。震災から数日後、掛布氏は阪神間へ炊き出しに出向くことを決めた。
「温かいものが食べたいんじゃないかって。ちょうどお好み焼き屋をやっていたんでね。知人からお好み焼きを焼ける鉄板がついた屋台を借りてね。とにかく温かいものを食べてほしかった。そして子供に笑顔を取り戻して欲しかった。(笑福亭)鶴瓶さんにお願いして、何とか子どもたちの笑顔を取り戻させてくださいって」
現地では一心不乱にお好み焼きを焼き続けた。「何枚焼いたかは覚えていない。仕込んでいた大きなバケツ2杯の生地がなくなるまでとにかく」。そこで掛布氏は忘れられない言葉を聞いたという。「おばあさんがね『掛布さん、頑張りや~』って。自分のことで精いっぱいのはずなのに、こちらを気遣ってもらえる。人間って強いんだなって、大丈夫だなって。あの時の経験は絶対に忘れることができない。自分の中では1985年の日本一と阪神大震災、この2つは自分の中で大きな出来事として記憶に残っている」。だからこそ震災から29年が経過した今でも、炊き出しを続けている。
「風化させない、忘れちゃいけない。その思いですよね。忘れさせちゃいけないイベント。こういうことが起こった時の準備というかね。もう29年前だけど、伝えていかなきゃいけない大切さってあると思うんです」と掛布氏。1月17日に神戸市長田区の大正筋商店街で行われる「第20回 神戸震災復興フリーライブ ONE HEART」ではカレーの炊き出しを行い、タレント・松村邦洋とのトークショー、歌手・酒井法子のライブが予定されている。
そして震災を経験したからこそ、掛布氏には復興についてある思いがあるという。「長田区が一番ひどかったけど、今は新しい町並みになっている。でも復興の仕方って間違えて欲しくないのは、新しい町並みにすればいいってもんじゃない。前の町並み、住んでいる方の思いも考えた町づくりをするべきなんじゃないかな。コンクリート造りのマンションやビルを建てて、『そこに入って下さい』って、お年寄りは生活できないでしょ」。実際に震災後、仮設住宅や復興住宅で起こった孤独死の事例が大きな問題となった。
「コミュニティを壊すようなというのはちょっと違うと思う」と提言した掛布氏。それは今回の能登半島地震においても同様の問題を抱える可能性がある。ただ今は「今は1日でも早く復興のメドが見えるようになってもらいたい」と祈りを込めた掛布氏。29年前、がれきの山と化した神戸の光景を目に焼き付け、復興への道のりを見つめてきた。そしてこの先も-。決して忘れない、そして風化させないために掛布氏は今年も炊き出しを行う。(デイリースポーツ・重松健三)