【ファイト】越中詩郎が田舎暮らしを選んだ訳 東京下町生まれの江戸っ子 長野移住で「何もないけどそれがいい」

 1986年に高田延彦との名勝負数え歌で脚光を浴び、昭和の終わりから平成にかけてのマット界において、ど根性ファイトで「ド演歌ファイター」と称されて人気を博したプロレスラー、越中詩郎(65)が5日にデビュー45周年を迎えた。現在は長野県諏訪郡原村に住まいを移して現役を続けており、45年間の思いと田舎暮らしの訳を聞いた。

 越中は65歳の今も良好なコンディションを維持している。デビュー45周年の当日もドラディションの後楽園大会で、古巣・全日本のトップの一角である37歳下の前3冠ヘビー級王者・青柳優馬と真っ向勝負し、健在ぶりを見せつけた。

 デビューは1979年3月5日、全日本の館山大会。前日、ジャイアント馬場に「明日やれ」と指示されたといい「突然だった。前の日に言われてビックリしました」と振り返る。タイツもリングシューズも作っておらず、先輩の百田義浩から借りた。デビュー戦を終えると馬場から「(費用は)全部俺が出す。好きなのを作れ」と言われ、シューズを作ったという。

 それから45年、越中は「不思議な感じです。(当時は)年間180~200試合、毎日違う会場で、馬場さん、アントニオ猪木さんがいて。ついちょっと前の感じですよね」と感慨を口にする。

 ここまで続けてこられた理由について聞くと「出会い」「巡り合い」という言葉で説明し、メキシコ武者修行に出してくれた全日本の佐藤昭雄、移籍させてくれた新日本の坂口征二に感謝した。さらに天龍源一郎、ジャンボ鶴田、長州力、藤波辰爾の名を挙げて「先輩たちの後を追いながらこそっちゅうかね。皆さんすごい試合をしていたから、自分もっちゅう気持ちになりました」と、ヘビー級に階級を上げた90年代の思いを明かした。

 中でもブレークのきっかけとなった高田は特別な存在だ。「相手とすれば高田延彦ですね。越中って名前を覚えてもらうようになったのは高田がきっかけだった」という言葉からは、プロレスでライバルに巡り合うことの重要性がよく分かる。

 原村への移住は「コロナのちょっと前くらい」だった。当初は「住もうなんて気持ちは全然なかった」が、何回か旅して物件を紹介されると妻が気に入り、購入した。

 今は「良さを痛感しています。空気がいい、水が素晴らしい。何もないけどそれがいい。薪(まき)ストーブを見ていても飽きないし、薪を割るのも雑草を刈るのも楽しいし。クマ以外は動物みんな、シカ、キツネ、タヌキ、鳥もいっぱいいるし、楽しいよ。毎日やることがいっぱいある」と田舎暮らしを満喫している。

 東京の下町に生まれ育った江戸っ子だが「都会にいたら不自由することは何もない。(原村は)飯を食うところも電車も、そういうのが何もないのが新鮮で、毎日がワクワクしちゃって」という。東京の自宅も残しており、試合があると上京して「1週間くらい練習しています」という二拠点生活の側面もある。

 あと5年で50周年となるが「そんなの気にしていない」と笑う。「オファーがあって呼んでくれれば、それに応えるだけのことです。越中が来てくれて良かったなっていう試合を残していきたいだけですよ」-。これが、45年で到達した越中の美学なのだろう。(デイリースポーツ・藤澤浩之)

 ◆越中詩郎(こしなか・しろう)1958年9月4日、東京都出身。78年、全日本入門。79年デビュー。83年、ルー・テーズ杯優勝。84年、メキシコ武者修行。85年、新日本移籍。86年、高田延彦との抗争でブレークした。92年、反選手会同盟結成。94年、平成維震軍に発展(99年解散)。2003年、WJ移籍。WJ崩壊後は新日本、全日本、ノア、ハッスルなどで活躍。07年、ケンドーコバヤシにモノマネされて再ブレークした。主な獲得タイトルにIWGPジュニアヘビー、IWGPタッグ。185センチ、105キロ。血液型B。得意技はヒップアタック。

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