【ファイト】最長老プロレス記者が明かす、藤波が大成したワケ「○○だから長持ちしたんだろう」 11日に藤波とトークイベント
最長老プロレス記者の門馬忠雄氏(85)と、プロレスラーの藤波辰爾(旧名辰巳=70)が今月11日、東京・巣鴨の闘道館で、トークイベント「門馬忠雄×藤波辰巳は語る 甦るBUNTAI!ハマのプロレス聖地・横浜文体ストーリー」を行う。イベントに先立ち、門馬氏が藤波、そして通称「文体」こと横浜文化体育館の思い出を語った。
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文体はイベント当日のちょうど62年前、1962年5月11日に開館した。88年8月8日、アントニオ猪木が藤波に挑戦したIWGPヘビー級選手権試合を始め、多くの名勝負が繰り広げられてきたが、2020年に閉館。今年4月、同じ場所に「横浜BUNTAI」として建て替えられてオープンし、4月27日にスターダムがプロレスこけら落とし興行を開催した。
横浜在住40年の門馬氏は、文体を「ハマのプロレス聖地」と定義。1964年の東京五輪ではバレーボール会場として使用され、当時は五輪担当記者だった門馬氏も取材した。その後、ボクシングを経てプロレス担当記者となり、「私は文体で鍛えられたようなスポーツ記者でプロレス記者」だと自認する。
「全日本、大日本、パンクラス、リングス…文体はあらゆる団体のドラマができている」
その文体をともに語る相手は、入門時から知る藤波だ。
「大分から家出同然に出てきて、(日本プロレスの巡業の)列車に乗り込んできた坊やが、新日本の社長にまで上り詰めるとまでは思わなかった。新弟子時代を全部知っているわけですから。全くの素人のたたき上げが社長になるって、いまだに信じられない。針金のような少年が新日本のトップに立つとは、長いキャリアでも驚異の一つ」
門馬氏は、藤波が日プロの巡業に現れたその日からのことを、今も鮮やかに覚えている。
「彼が入門する少年だとは思わないじゃない?ポケットに5~6千円を入れて出てきた列車の中に俺もいた。同じ郷里の北沢幹之を頼って、北沢がいなかったら藤波も成立しなかった。藤波は猪木ファンで、ずーっと北沢にくっついて歩いていた。大分の次の巡業先、下関の宿の『三船』で猪木と顔を合わせたんじゃないのかな。なんだろうこの少年は?という感じだった。それから巡業について。北沢が守ってくれたんだろう。東京の会社まで来てしまって、北沢に(実家に)電話してもらったらしい。『3年帰ってくるな』と。3年辛抱して、いつの間にか日本プロレスに入ったってのが本当だよ」
藤波は中学時代に陸上競技を経験したとはいえ、レスリングや相撲、柔道の経験者で大型の選手がゴロゴロしていた日プロでは「何もやってない」に等しかった。そんな藤波がスーパースターになり、業界トップである新日本の社長にまで上り詰めたのはなぜなのか。
「まず性格が良かった。曲がった気持ち、邪念がなかった。それじゃないのかな。要領は悪かった。だから長持ちしたんだろう。とにかくいいやつですよ。裏表のないやつだから。プロレス一途な気持ち、いい意味でのプロレスばかだよね。同じようなタイプでは、少し違うけど佐々木健介、小橋建太、船木誠勝」
70歳の今も現役を続けていることも「想像つかなかった」としつつ、その理由を「猪木の吸引力だと思いますね。カール・ゴッチとの出会いも強くしたポイントだろうね」とみている。
門馬氏は「俺、巡業で腕立て伏せとかバーベルをよくやっていたんだ。自分の体重より持ち上げたら力持ちだと聞いたけど、俺は90キロくらいまで挙げるんだよ、元水泳部だから。そうしたら、あいつが挙げていた130キロくらいのバーベルを、俺の胸に置いて逃げてったんだよ!安達(勝治。のちのミスター・ヒト)か誰かに助けてもらったけど」と、藤波少年とのほほ笑ましいエピソードも明かした。
藤波とも文体とも長くて濃い付き合いの門馬氏が「その試合を抜きに横浜文体は語れないんじゃないかな。この前うちに来た水道屋さんが横浜文体のことをしゃべっていて、その試合のことを言うもんね」と認める歴史的名勝負が、88年8月8日の藤波-猪木戦だ。
今回のトークショーではその一戦をはじめ、門馬氏が藤波、昨年までデイリースポーツのコラムニストとしても健筆を振るった元東京スポーツの名物プロレス記者・高木圭介氏とともに、文体と藤波を語り尽くす。
ここまでの話はほんのさわり。何が飛び出すか分からない、プロレスファン必聴のイベントと言えるだろう。(デイリースポーツ・藤澤浩之)