【サッカー】元日本代表・水沼貴史氏 指導者ではなく解説者の道を選んだ理由 「当時はその役割をする人がいなかった」

 日本リーグ(JSL)・日産自動車(現横浜M)で主力として黄金時代を支え、日本代表でも活躍した水沼貴史氏(64)。悲願のプロ化であるJリーグを経験し、現役引退後は長くサッカー解説者として歩んできた。なぜ指導者ではなく、当時は確立されていない解説者の道を歩んだのか。サッカーの普及へ懸けてきた、その思いを聞いた。

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 冬の時代を知ればこそ歩んだ道なのかもしれない。念願のプロ化である93年のJリーグ開幕も経験し、3年後の95年に現役引退。その先には、当然ながら指導者としての選択肢もあったはずだ。

 だが水沼氏は「辞めた時に指導者は全く考えていなかった。何をやるかとなった時にメディアだなというのはあった」という。それは「(J発足から)3年目で辞めたが、その間にJリーグがどれだけ認知されているか、日本の中でどれだけの価値があるかを考えた」との思いがあったから。

 観客もまばらなJSL時代を過ごした水沼氏に、93年5月15日の国立競技場で行われたV川崎(当時)と横浜MでのJリーグの開幕戦は「これだけの人たちがサッカーを見てくれている」と文字通りの夢舞台だった。

 だからこそ「もっといろんな人にサッカーを伝える人がいるべき」という考えに至った。引退後は試合の解説だけでなく、96年からTBS「スーパーサッカー」にご意見番としてレギュラー出演。その他にもニュース番組のスポーツコーナーや情報番組のコメンテーターと幅広く活動する。

 「当時は、その役割をする人がいなかった。サッカー以外でも選手たちの魅力をたくさんの人に知ってもらう。そこで入り口を作って、サッカーに興味を持ってもらう」

 人気番組の「スーパーサッカー」では「バナナキングコンテスト」などの名物コーナーで選手たちの素顔を引き出し人気を博す。しかし、伝え手を10年間続けた中で、今度は指導者となる必要性を感じ始めたという。

 「伝えるためには伝えるだけの知識などが必要。自分が現場に入ることも大事だと思った」。06年に出演番組を降板して横浜Mのコーチへ就任。シーズン途中の8月には岡田武史監督の辞任に伴い、監督へと就任した。

 ただ、順風満帆とはいかない。翌07年も監督続投の打診を受けたが「もっと自力を付けたかった。監督をやってみて、もう一回ちゃんとやらないとダメだと思った」とコーチへ戻ることを決断。だが、07年オフは契約更新がされなかった。

 「甘かったんですよ。自分で描いてる道と、リアルに考えてる人たちとは全然違った」。自身の決断に後悔はないが、プロでの指導者生活はわずか2年で終わった。それでも、そこでの経験は今に生きているという。

 「時代が変わればサッカーも進化し、それに追いつかなければいけない。指導するには勉強して、今何が必要かを考えなきゃいけない」。学び続けたことは「それをやっていなければ、今こうしてしゃべってはいられないだろうね」と再び戻った伝え手の血肉となる。

 現在もJリーグや代表戦などの解説を中心に活動。「理論的なことや数字が好きな人、選手のメンタリティーを好きな人もいる。切り口で話し方も変わってくると思うが、そのニーズに応えられるように常に情報を得ることはやっている」。根底にあるのはサッカーの楽しさを伝えたいという変わらない思い-。

 今や日本もW杯へ7大会連続出場の常連国となった。ただ「文化になるのは、僕はまだ先だと思う」と水沼氏は言う。サッカーファンが夢見る日本のW杯優勝。「その一助になれば」と、これからも多くの人たちにサッカーの魅力を伝え続ける。(デイリースポーツ・中田康博)

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