【ファイト】日本ボクシングの生き字引が昔話をしなかった理由とは 「私には物を言う資格がないのよ」 亡くなった長野ハルさんを悼む
ボクシングの帝拳ジムは5日、長くジムのマネジャーを務めた長野ハルさんが1日に老衰のために死去したと発表した。99歳だった。1948年から70年以上にわたって名門ジムの運営を支え、大場政夫、浜田剛史、山中慎介、村田諒太ら多くの世界王者輩出に貢献した長野さんを、元ボクシング担当の津舟哲也記者が悼んだ。
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長野ハル様、長い間本当にお疲れさまでした。私が最後に、連絡をさせていただいたのは、昨年、貴女の誕生日でした。「おめでとうございます。これからもお元気に!」とメールを送った私に「まだボクシングを愛してますか?」と返してくださりました。
長野さんの存在は、沢木耕太郎さんの著作などを読んでおり、お会いする前から私なりのイメージがありました。「長野さんは、ボクシングの生き字引ですよね。どうして、昔の話をされないのですか?」という遠慮のない私の質問に「私はね、2人の選手を亡くしたの。ボクシングのマネジャーの仕事は、親御さんのところに無事に帰すことなのよ。私にはそれができなかった。だから、物を言う資格がないのよ」と答えてくださった。気さくな印象しかありません。
いくつもの大手出版社から、日本ボクシング界の歴史をたどるという企画などで、オファーがあったという。だけど、すべて「お断りさせていただいたの」と最後までつらい責任を背負っていらっしゃった。
すごい、と思っていたのは長野さんが90歳を超えてからも、ジムのあるJR飯田橋駅から水道橋の後楽園ホールに通い続けていたこと。WOWOWの仕事で辰巳のスタジオに訪れても、社の用意した車を断り、地下鉄を乗り継いで動かれていたこと-。ジムの事務室では、机の上によじ登って、張り紙を替えたりされていらしゃいましたね。
村田諒太選手が、世界チャンピオンを目指していたころ、ジムで珍しく記者を交えて雑談に花が咲いた。「青春」と言う話題になると「私たちの頃はね。戦争が終わったのが一番なの。本当にうれしかった。それが一番の青春よね」という素晴らしい笑顔が忘れらません。
ボクシング担当を離れ、ボートレース担当に移る報告をさせていただくと「(ボートレース競走会会長の)小高(※はしごたか)さんは、ウチの(本田)会長と仲がいいのよ。頑張ってね」と励ましていただきました。選手にだけではく、記者たちにも優しい、素晴らしい女性マネジャーでした。どうぞ、ごゆっくり、おやすみください。(元ボクシング担当・津舟哲也)