カープOB龍憲一さん、教え子のソフト柳田にエール「3冠王を目指せ」 王会長との特別な縁
元広島カープの投手で、広経大の監督時代にはソフトバンク・柳田悠岐外野手(32)をプロに送り出したことでも知られる龍憲一さん(83)。今や球界屈指のスラッガーとなった教え子の大学時代の思い出や、現役時代に対戦した王貞治ソフトバンク球団会長(80)との特別な縁について話をうかがった。
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龍さんが広経大の指導に携わったのは2000年から。10年間コーチを務めた後、監督を3年間務めた。柳田が入学してきたのは07年。「足と肩はずば抜けていた。当時からやっぱり下半身が強かった。しっかり振るけど下半身が崩れなかったですね」と能力の高さを感じていた。
少し気になったのはスイングの軌道。いわゆるアッパースイングで「直した方がいいんじゃないかなという感じはあった」。しかし、そのスイングで1年時から打率・450以上の数字を残した。「4割5分打つバッターを、いじりすぎて打てなくなったらいけない。『とにかく三振してもいいから、しっかり振れ』ということだけ言い続けました」。今や柳田の代名詞にもなっているフルスイングは、龍さんの助言が大きな影響を与えた。
プロ入り後も教え子の姿を見るため、ソフトバンクの春季キャンプにたびたび足を運んでいる。王会長とも柳田の大学時代の頃の話をよくする。ある時、龍さんが「私は投手だったから、彼のバッティングはあまりいじらなかったんです」と話すと、王会長は「それは正解でしたね」と言ってくれた。柳田の個性を生かした指導が間違っていなかったことに改めて安堵(あんど)した。
現役時代には王会長とも対戦。「王さんが放った通算868本塁打のうち13本は私から打ったものです」。各球団の主戦投手が「打倒・王」に燃えて勝負を挑み、何度も返り討ちにあった。中継ぎが主戦場だった龍さんもたびたび手痛い一発を食らった。「(13被弾は)自分の野球人生の中の一つの勲章だと思っています。巨人が9連覇の時代に対戦していますから」。11年間の現役生活。超一流のレジェンドとしのぎを削った経験が、その後の人生でも何物にも代えられない財産になっているという。
10年度のドラフト会議では、王会長の鶴の一声で柳田の2位指名が決まったのは有名なエピソード。龍さんが現役時代、打ち取るために心血を注いだ最強打者が、数十年の時を経て教え子のプロ入りを後押ししてくれた。王会長との間には特別な縁があると感じている。
球界を代表するスラッガーとなった柳田には金字塔を打ち立ててほしいと願っている。「王会長も自分自身に近いものを感じて、これからの活躍を楽しみにしているんじゃないかな。私も三冠王を1回は取ってほしいと思っているんです」。現在は広島市内の自宅で悠々自適な日々を送る龍さん。今年も教え子の活躍を期待しながらプロ野球開幕の日を待ちわびている。
(向 亮祐)
【現役時代の回想】 福岡市出身の龍さんは60年に東映(現日本ハム)に入団し、62年に広島へ移籍。65年には18勝を挙げたが、「17勝がリリーフでした」と回想する。64試合に登板し、計226イニングを投げた。
先発投手が序盤でKOされ、龍さんがロングリリーフすることも多かった。ある試合では初回、先発投手が無死満塁のピンチを残して降板。龍さんが緊急登板し、九回まで投げきってチームは勝利した。「9イニングを投げたけど、もちろん完投にはならない。勝利はつきましたけど」。当時はセーブもホールドもない時代。形として報われるものはなくても投げ続けた。
62年からの5年間は毎年50試合以上に登板するフル回転ぶり。だが、その代償は大きかった。肘は限界に達し、医者から「肉離れで腱が4カ所切れている」と告げられた。66年に16勝をマークして以降は年々成績が下がり、33歳の時に引退。太く短い11年間のプロ生活だった。
◆龍憲一(りゅう・けんいち)1937年4月28日生まれ。福岡市出身。福岡商科大付属大濠高(現・福岡大大濠)から杵島炭鉱、日炭高松を経て60年に東映に入団。62年に広島に移籍し、70年に現役引退。通算成績は426試合登板、60勝68敗、防御率3・51。その後、広島と太平洋クラブ(現西武)でコーチを務める。00年から広経大のコーチとなり、監督時代は2度リーグ優勝に導く。13年に退任。現在は広島市佐伯区在住。