越中、還暦&40周年だって 平成維震軍は不滅!新元号になっても侍魂貫徹

 昭和から平成を駆け抜けてきた“侍戦士”越中詩郎(60)=フリー=が「侍祭り~平成最後の平成維震軍」と銘打ってデビュー40周年記念大会(30日、後楽園ホール)を開催する。1979年3月に全日本でデビューし、85年8月に新日本に移籍。92年8月に反選手会同盟を結成すると93年11月に平成維震軍に改名。大将として軍団を指揮し、94年11月には新日本の第2ブランドとして旗揚げした。ドーム興行(東京、福岡、大阪)はノアを含めて28回(89~2016年)、G1も9回出場。IWGP王座には3度挑戦し、フリー転向後も侍魂を貫いてきた。還暦と40周年を迎え「新元号になっても維震軍は不滅」と意気軒高だ。

 熱烈な阪神ファンの“ド演歌ファイター”は、ザ・ビートルズを愛する音楽通でもある。還暦のレジェンドがダイビング・ヒップアタックを放つ姿は、侍美学の真骨頂だ。

 高卒後に一度就職したが、ロマンを求めて一念発起。下積み時代は道場でボロボロに投げられながら受け身を習得した。雑用に追われて太れず“衣紋掛け”とも言われた。

 馬場・猪木との絡みでは、全日本でルー・テーズ杯を制した83年の10月、馬場と生涯1度の師弟タッグを体験。A・猪木には闘魂復活七番勝負など2度の一騎打ち(88、89年)を挑んだ。

 84年にメキシコに遠征し、アレナメヒコのメイン舞台で大観衆に武者震いした。だがカミカゼ・ミサワは4カ月余で帰国。残されたサムライ・シローは翌年、新日本へ移籍した。B・ブロディに続く生え抜きのダブルクロスは、大事件だった。

 新天地では86年に初代IWGPジュニア王者となり、UWF勢が業務提携して出現すると高田伸彦(延彦)と抗争。「引いたらダメ。前に出る」の意気込みで台頭した。

 92年に小林邦昭と青柳政司率いる誠心会館と抗争。選手会長の座を投げ打っての戦いから反選手会同盟が誕生し、平成維震軍という一大勢力に発展。第2ブランドとして旗揚げし、1年間の自主興行では6万9566人(34大会)を動員した。

 現場監督・長州力の“懐刀”という裏のキーマンとしても力量を発揮。WARとの全面抗争では先兵の役目を担い、長州-天龍源一郎(93年)、猪木-天龍(94年)の年頭ドーム決戦につなげた。

 G1でも名勝負メーカーとして活躍。95年はIWGP王者として優勝する武藤敬司を初戦で撃破。斎藤彰俊に肩車され、驚きで波打つ国技館の観客席を見渡した。同12月には武藤とのIWGP王座初挑戦も実現した。

 96年3月、UWFインターの日本武道館で高田のIWGP王座に挑戦。8年ぶり因縁対決(通算2勝3敗2分け)に燃えた男は同月に広報担当の廉沢直美さんと結婚し、人生のパートナーも得た。

 新日本では外様だけに維震軍は心地よい居場所だった。解散までの7年は「最高の時代」と言い、絆は今も健在だ。00年には全日本にも参戦。三冠争奪トーナメントで川田利明と再会戦を行った。

 03年に長州のWJに移籍したが、旗揚げから混乱。フリーになって最初に受け入れたのは三沢で、ノアで19年ぶり再会マッチが実現した。06年に新日本にレギュラー参戦し、永田裕志のIWGP王座に挑戦。07年のG1では棚橋弘至、中邑真輔とも対戦した。

 フリーになっても「期待以上のものを残すこと」を信条に40周年に到達した。「全部が肥やしになった。(脇役でも)食ってやろうという気持ちでぶつかってきた」と言い、リングに真摯(しんし)に向き合う姿勢は今も変わらない。

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