4月11日は「ガッツポーズの日」由来はガッツ石松のうっ憤吹き飛ばす初戴冠

 4月11日は「ガッツポーズの日」。これは、1974年4月11日に行われたボクシングのWBC世界ライト級タイトル戦で、ガッツ石松が、王者ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)を破り、日本人初のライト級王座を奪取した日に由来する。石松が観客に向かって両こぶしを掲げたことから「ガッツポーズ」と呼ばれるようになったという説はよく知られている。

 当時のデイリースポーツは1、2面で石松の快挙を伝えている。快挙の陰には、交通機関が麻痺し、観客の来場が見込めない中での世界戦敢行という異例の事態があった。

 1973年(昭和48年)第一次オイルショックの翌年である74年は、ストライキなど労働争議がピークを迎えていた。その数は年間1万件以上にものぼり、特に交通機関のストは生活に大きく影響し、市民の不満も招いていた。

 1974年4月11日は、列車やバス、タクシー、航空機などが早朝からほぼ完全に麻痺していた。当時、春闘史上最大の「決戦ゼネスト」と呼ばれたこのストでは国鉄はほぼ全面運休。首都圏の私鉄なども動かず、通勤通学もままならない状況だった。

 そんな中、石松の試合は東京・両国の日大講堂で行われた。当時のデイリースポーツによると、日大講堂へのアクセスは電車もバスもなく、その上駐車場もない、ないないずくし。“空き家の中でのマッチ”と予想された。

 ファイトマネーはゴンザレスが推定6万ドル(当時約1800万円)、石松は1万ドル(同約300万円)。さらに王者一行の往復の旅費に宣伝費、当日の人件費など総支出は約3200万円だった。一方、収入は中継テレビ局の放映権料3000万円で、あとはこの日の切符の売り上げのみ。そのため、プロモーターは中継テレビ局に1週間の延期を申し込んだが、代替番組がなく、やむなく赤字覚悟で予定どおりに強行した。

 しかし、ふたを開けるとびっくり。いつもなら両国駅から日大講堂まで続く人の波の代わりに、会場脇の京葉道路の歩道には、バイク、自転車がズラリと並んだ。会場入り口の両側にもバイク、自転車の山。田舎町での興行のような光景が、東京の中心に広がったのだ。会場は主催者発表で7000人。満員には届かなかったが、主催者の予想を大きく上回るものだった。

 そこで石松は“森の石松”をモデルとした三度がさを着てリングイン。不利の予想を覆し、持ち前のスピードを生かした攻撃で8回に“幻の右”と呼ばれるパンチでダウンを奪った。しかし、10カウントを超えていたにも関わらず、レフェリーは試合を続行。「ロングカウントだ」という青コーナーからの抗議も認められなかった。

 続いて左アッパーで相手を沈めたが、王者が自力で立ち上がれないにもかかわらず、これもレフェリーはスリップと判定。自ら手を貸して立ち上がらせた。さすがの石松も「頭にきた」とキレた。高速の左右のフックを連打し、執念でKO勝利をもぎ取った。

 度重なる不利に何度も見舞われながら、すべてを泥臭くはね返した石松に、7000人の観客は熱狂した。興奮のあまりイスから落ちたり、転んだり。しかし、打ち身やすり傷を抱えた観客は皆、笑顔で帰路についた。

 3度目の世界挑戦での初戴冠に、石松は「オレは男になったぞ」と胸を張った。「これで有名になれたでしょうか?」と報道陣を笑わせたのは、いかにも彼らしい。当時のデイリースポーツ一面の見出しは「スト列島沸かす ガッツ石松猛爆」。市民のうっ屈を吹き飛ばしたガッツポーズは、スポーツの持つ潜在的な力の象徴だった。

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