辰吉丈一郎“不屈の原点”振り返る アンチが8割「あの頃があったから今がある」
1990年代、日本ボクシング界は一人の男が中心だった。WBC世界バンタム級王座に3度就いた辰吉丈一郎だ。国内最速(当時)の8戦目で世界奪取、度重なる眼疾、世界戦3連敗からの返り咲きなど強烈なインパクトを与え続け、試合から遠ざかった今も現役を名乗る。5月15日で50歳を迎えた“浪速のジョー”が独占インタビューに答えた第2回。時代の寵児(ちょうじ)として生きた辰吉にも「アンチが8割」という時代があった。「あの頃があったから今がある」と言う、不屈の原点を振り返る。
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50歳の辰吉は現役だ。ただ金はボクシングで稼ぐと決めており、副業も資産運用もせず、今は自分の拳で稼いだ糧で暮らしている。
「お金って人が作ったもんやん。それでみんな仕事したり物を買ったりするけど、お金に惑わされてないかな。世の中は金やと言う人もいるけど、俺は世の中はここ(心)やと思うねん。お金はすごく大事やし魅力的なもんよ。でも、それで(すべてを)測るのは違うと思うんやけど」
かつて世界戦ではガウンやトランクスにスポンサーをつけず、家族の名前だけを入れた。CM出演依頼もほとんど受けなかった。ぜいたくに関心を示さないのは今も同じだ。
「家は賃貸でもう30年近く住んでる。(服は)ずっとジャージーよ。ジムにはコンビニ袋。驚異的に長く破れない。あれでラスベガスに行った時はびっくりされたけどな」
価値観の原点は、父粂二さんとの貧しかった暮らしだ。「父ちゃんに楽をさせたい」と五輪候補を蹴ってプロになった。稼いでその価値を知った。だからこそとらわれない。今根底にあるのは「はい上がってやる」の思い。その不屈の精神が芽生えた瞬間がある。
「当時は日本人は世界戦で弱いと言われてた。(4戦目で)日本王座を獲って、見とけ、ワシがおる!ってよう言うてたんよ」
当時国内最速8戦目。世界王者不在の空白を埋めた超新星に、日本中が沸いた。
「そうしたらファンレターがすごかった。いや、ファンちゃうな。『死ね』とか『お前なんて負けたらええねん』とか『負ける姿を楽しみにしとくわ』とか、最初はアンチが8割。生意気言うたんは俺やから、そらそうやなと思ったよ」
眼疾でリングを離れてから“炎上”はさらに強まった。
「入院して部屋から一歩も出られないからファンレターを見る。でも『頑張って』なんて一切ない。『ほら見たことか』『バチが当たったんじゃ』って。俺が負けてグチャッてなってる絵をすごいリアルに描いて送ってくる人もいて、そらすごかった」
さすがに心が折れた。しかし、その罵詈(ばり)雑言こそが、後の人生をつくったと言う。
「父ちゃんとるみ(妻)に言われた。注目されてる人間は、何かを手にすると悪く言われるもんやって。デビューした時から散々えらそうに言うとった。それは自分がまいた種や。悔しかったらはい上がってみいって。父ちゃんはチャンピオンになってやめさせたがってたからカムバックせいとは絶対に言わん。でも、やれるもんならはい上がってみいとは言うた。誰も何も言わんようになるって。それでカムバックを決めた」
93年、網膜乖離の手術からの退院会見は、当時のルール上「引退会見」となるはずだった。しかし、何のメドもない中で辰吉は「僕はボクシングがやりたい」と再起を宣言した。あれから27年。
「あの頃の気持ちと変わりがないと言えばうそになるけど、あの時代があったから、今もぶれてない、狂ってない。まだ、今の自分にできることがある。だから幸せやで」
◆辰吉丈一郎(たつよし・じょういちろう)1970年5月15日、岡山県倉敷市出身。中学卒業後に故郷を離れ、大阪帝拳に入門。アマで全日本社会人選手権優勝などを経て、89年プロデビュー。4戦目で日本バンタム級王座、8戦目でWBC世界同級王座を獲得。3度の戴冠、2度の王座奪回を果たす。プロ通算28戦20勝(14KO)7敗1分け。家族は妻のるみさん。2人の息子は結婚して孫が1人。プロボクサーの次男・寿以輝(23)=大阪帝拳=は日本スーパーバンタム級8位。