ジャンボ鶴田とは何者だったのか…没後20年、決定版評伝の著者に聞く(後)

「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」の著者・小佐野景浩氏
2枚

 最強のプロレスラーを語る時に必ずその名が挙げられる怪物・ジャンボ鶴田が2000年5月13日に急逝してから20年がたった5月13日、600ページ近い評伝「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」(ワニブックス)が刊行された。筆者は週刊ゴングの全日本プロレス担当記者として現役時代の鶴田を取材してきた小佐野景浩氏(58)。3年の歳月を費やした大著と、鶴田への思いを著者が語る、その後編。

  ◇  ◇

 実兄の恒良氏、高校時代のバスケットボール部の同期生、中央大レスリング部の同期で主将だった鎌田誠氏、ライバルの早大・磯貝頼秀氏といったプロ入り前の姿を知る人物にインタビューし、ルーツを探るところから物語は始まる。知られざる若き日々が解き明かされていくさまはエキサイティングだ。

 後に天龍や三沢との対戦で怪物的な強さをファンに認識されていった鶴田だが、小佐野氏は取材の過程で「デビューした時点でこの人はすごかった。こんな人はいないな」と、改めて感じたという。一方で鶴田は「真の意味で最高のプロレスラーになる難しさ」に直面した選手でもあり、本書ではその軌跡が緻密に描かれていく。

 日本マットでは、開祖・力道山に始まり、馬場、アントニオ猪木から前田日明、大仁田厚に至るまで「自分で団体を起こして長になってこそトップ」という意識がファンに根強かったが、「リングを下りたら普通の人」たらんとしていた鶴田は「そういうところは全く目指していなかった。背を向けていた」。

 当時はファンに物足りなさ、歯がゆさを感じさせていたそんな面も「今のプロレスラーだったらシンパシーを感じると思う。彼の人生設計、プランを持って、何歳になったらこういうふうになっていたいというところが。昔は宵越しの金は持たない、というような人がもてはやされたけど、鶴田さんの世代も、その次の世代も引退して、第三世代まで引退し始めた今、鶴田さんの堅実な生き方が正しかったとも言えます」と小佐野氏は言う。

 当時はファンの不興を買った反則や両者リングアウトなど不完全燃焼な結末の試合も、今の目が肥えたファンであれば「なるほどと思ってもらえる」であろうとみている。

 小佐野氏は鶴田と接した印象を次のように振り返る。

 「すごく人当たりが良く、誰に対しても分け隔て無く接する気さくさを持っていた。当時は近寄りがたい職人的なレスラーも多かったけど。その半面プライドが高く、時折冷めたような言動を見せるのもプライドの裏返しだったと思います」

 鶴田は2000年5月13日、フィリピンでの肝臓移植手術中、出血多量で死去。49歳の若さだった。小佐野氏は、鶴田が生きていたら「馬場さんが鶴田さんに社長を譲る流れもあったかもしれない」と考えている。

 本書にも書かれているが、馬場と鶴田をめぐっては、サムソン・クツワダが鶴田を担いで新団体を起こそうとした77年のクーデター未遂事件や、81年に日本テレビから出向してきた新社長が馬場に代わって鶴田をトップに据えようとしたりした経緯があり、また、天龍が馬場の相談役として信頼が厚かったため、微妙に距離があったとされている。

 しかし、その後は「そういうことを乗り越えた信頼関係があった」という渕正信の証言もあり、健在であればマット史は全く違っていたかもしれない。

 没後20年、改めてジャンボ鶴田とはどういうプロレスラーだったのか。小佐野氏は「リング上では最強のプロレスラーだったと思います。あれだけの才能と強さを持った人はいなかったけど、結果的にあの生き方は-本人は普通の人でいたかったのかもしれないけど-人生そのものがプロレスラーだったと思います。最後は生きるためにオーストラリア、フィリピンにまで行って病と闘った。骨の髄までプロレスラーだったと思います」とたたえる。

 本書は重版出来となり、インターネット上でも反響を呼んでいる。小佐野氏は「亡くなって20年、鶴田さんに直接、取材していた人も限られてきている中で、この本でこんなに盛り上がってくれたのはちょっと予想外で、鶴田さんの良い供養になったという思いはあります」と喜ぶ。決定版とも言える本書の出版を機に、再評価がさらに進むのではないだろうか。(終わり)

関連ニュース

編集者のオススメ記事

ファイト最新ニュース

もっとみる

    主要ニュース

    ランキング(ファイト)

    写真

    話題の写真ランキング

    リアルタイムランキング

    注目トピックス