「俺は淋しいんだ」「歩兵の歌」 2つの選曲に猪木さんの真情を見た思い

 元プロレスラーで参院議員も務めたアントニオ猪木さん(本名・猪木寛至)が1日午前7時40分、心不全のため都内にある自宅で死去した。79歳。猪木さんのマネジメント会社が発表した。プロレス界だけにとどまらず、政界をはじめ多方面に影響を及ぼした猪木さん。その素顔を担当記者が振り返った。

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 記者がデイリースポーツに入ったのは、何よりもアントニオ猪木を取材するためだった。つまり、猪木さんに人生を決定づけられた。1990年代は政治家の猪木さんを取材してスポーツ平和党のハチャメチャさに目を疑い、2000年10月から12年11月まではプロレス担当として猪木さんの謦咳(けいがい)に接した。

 六本木交差点から芋洗坂を下ると、左手に猪木さんの妻・田鶴子さんの営むバーがあった。番記者や友人知己が猪木さんを囲み、猪木さんもカラオケのマイクを握るなど、リラックスしていた。

 戦時歌謡「ラバウル小唄」を歌うことが多い猪木さんがある日、フランク永井の「俺は淋しいんだ」と軍歌「歩兵の歌」を歌った。前者は師匠・力道山の、後者は兄貴分・豊登の愛唱歌だったと打ち明けてくれた。力道山と豊登への感情は愛憎相半ばするものだったが、この選曲には猪木さんの真情を見た思いがしたものだ。

 06年2月27日、猪木さんは猪木さん、ジャイアント馬場さんと並び力道山道場の三羽ガラスとうたわれた大木金太郎さんを韓国から招き、囲む会を六本木の中華料理店で開いた。長い闘病生活を送っていた大木さんにとって、第二の母国である日本でのこの会が、大きな慰めになったことは想像に難くない。

 猪木さん、力道山の妻・田中敬子さんと共に発起人に名を連ねた張本勲さんにとっては、34年ぶりの兄貴分との再会だった。会を設けた猪木さんを「40年前の義理をよう忘れんと…チャンピオン、あんた男や」とたたえ、涙を浮かべていた。大木さんはこの年10月27日に死去し、これが最後の来日となった。

 「冷たい」と評されることも多かった猪木さんだが、このように、温かい顔を目にする機会は多かった。東日本大震災から1カ月もたたない11年4月には被災地の福島県いわき市や宮城県東松島市に入り、避難所を慰問している。取材でもそうだったが、プライベートでご一緒した場合でも、常に温かく接していただいた。

 担当を離れてからはお会いする機会が減った。19年3月には花見に誘っていただいたが、仕事の都合がつかずお断りせざるを得なかった。すぐ後に田鶴子さんから、猪木さんの使っていたペンを贈られた。田鶴子さんはその年8月に亡くなり、猪木さんも亡くなったことで、形見になってしまった。また、お話ししたかった。(デイリースポーツ・藤沢浩之)

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