岡野俊一郎氏死去 元日本サッカー協会会長 02年日韓W杯成功に尽力
日本サッカー協会会長として日本と韓国が共催した2002年ワールドカップ(W杯)を成功させ、長年国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた岡野俊一郎(おかの・しゅんいちろう)氏が2日午後10時56分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。3日、日本サッカー協会が発表した。85歳。葬儀・告別式は近親者のみで行う。
岡野氏は長きにわたって日本のスポーツ界を支えた。東大時代にサッカーの日本代表入り。コーチとして1964年東京五輪で8強、68年メキシコ五輪では銅メダルに導き、70、71年には監督として日本代表を指揮した。その後、日本オリンピック委員会(JOC)で日本体協からの独立に尽力し、90年から11年までIOC委員を務めた。98年には日本サッカー協会会長に就任。W杯の準備や運営に力を注いだ。
上野駅前の和菓子屋「岡埜栄泉」の5代目だったが、甘い物は駄目で酒をこよなく愛した。
海外出張ではワインを片手にホテルのバーで、IOCや国際サッカー連盟(FIFA)の友人たちと親交を深めた。02年W杯の招致競争では、FIFA内の権力抗争により日韓共催が避けられない情勢の中で、当時のFIFAブラッター事務局長(前会長)からじかに電話で「日本も共催を受け入れる趣旨の文書を出してくれ」と頼まれた。ともにファーストネームで呼び合う、厚い信頼関係の友人に囲まれていたからこその逸話だ。
1988年3月まで20年間放送された民放テレビ番組「三菱ダイヤモンド・サッカー」の名解説でも知られる。海外サッカーの映像を毎週、技術や戦術だけでなく、チームの歴史や土地柄、民族性まで豊富な知識と海外での見聞を交えて紹介した。
05年に日本サッカー殿堂入りし、12年には文化功労者に選ばれた。同年、肺にがんが見つかったことを明らかにした。16年からは日本サッカー協会の相談役を務めていた。