運任せにしない-内戦経験したがゆえの『ハリルの信条』
「W杯アジア最終予選、日本2-0オーストラリア」(31日、埼玉スタジアム2002)
日本代表をW杯に導いたバヒド・ハリルホジッチ監督(65)にとっては生まれた時から、サッカーは身近な存在だった。現ボスニア・ヘルツェゴビナのジャブラニカという街にバヒド・ハリルホジッチは生まれた。鉱石の採掘をなりわいとする父と、教育熱心な母。そんな家庭に生まれた。「小さい頃はスタジアムから100メートルぐらいのところに住んでいた」。日常的にサッカーと触れ合って来たが、転機は14歳の時だった。
電気技師としての学業を学ぶため、ジャブラニカ近郊の都市・モスタールの学校に入学。ハンドボールのコートでサッカーを楽しむことはあっても「エンジニアになろうと思っていた」。ただ、ある時、クラス対抗のサッカー大会で優勝を飾った時、ベレージュというクラブから誘いが来た。「学業の道に進むか、サッカーの道に進むか悩みました。母親は勉強しなさいと言っていた。ただ、私はサッカーを選択した」。
生粋のストライカーとして2度のフランスリーグ得点王、代表選手としても輝かしい経歴を持つ。ただ、指導者への道は「リストの一番最後」だったという。引退後は実業家としてビジネスを展開し、故郷に複数の店舗も持った。しかし数年後、ユーゴの内戦がハリルの人生を動かす。
戦火で店舗を失い、自身も命を狙われる事態にあった。「名字が違うから、民族が違うから、あるいは宗教が違うからということで殺し合う姿を見た」。そんな時、フランスから指導者の話が来た。フランス国籍を持たないため、さまざまな困難があったが、それらを乗り越えて98年から02年まで指揮を執ったリールで結果を出し、08年にはコートジボワール代表監督に。11年6月からはアルジェリア代表監督となり、14年のブラジルW杯で16強に進出した。
仕事のスタイルとしては「やるなら100%。100%でやらないなら、それはやらない」。徹底的に準備して「運任せなことはしたくない」というスタイルは、内戦という祖国の闇に人生を翻弄(ほんろう)された半生ゆえだろう。「負けることが大嫌い」と公言する指揮官。ロシアW杯でどんな戦いを見せるのだろうか。